生きやすい時代が来た
ふとどうしようもなく怪談を求めてしまうときというのがあり、今がその時だ。どうしようもなく怪談を求めてしまう時というのは、心がザラついているときである。
ただし怪談ならどんな怪談でもいいというのではない。ぼくが怪談を求める時の怪談とは「真の怪談」であり、真の怪談とはすなわち
のことである。
怪談の本質
ここでちょこっと怪談について語らせてもらうなら、そもそも怪談とは超自然的な現象のように思われているが、本質は違う。
怪談は、たしかに最終的には現代科学が解明できていない事象として生じるのだが、怖さの核心はそこにはない。
そもそも、怪談の由来はこの世で起こった凄惨なものごとなのである。それがあまりに凄惨で、あまりにみじめで、あまりにはさびしく、あまりに荒涼とした出来事だったからこそ、死をもっても完全に割り切ることができず
のだ。人生の割り算で割り切れなかったその「余り」が超自然現象として生者の前に現前するのであり、死を乗り越えて「残ってしまう」というか「引きずってしまう」ということは、生前によほど割り切れない凄惨ななにかがあったからにちがいない。
真にえぐい怪談の怖さの本質は、「余り」そのものではなく、「余り」が超常現象化する前に起こったなんらかのえぐい本体にある。
ただし、その本体がなんなのかは、超常現象の体験者にはわからない。
さぞ陰惨な出来事があったのだろうな・・というおぼろげな推測を掻き立てるところに、真にえぐい怪談の本物の怖さがある。
『ブルーベルベット』の耳
これは怪談に限らない。たとえばデービッドリンチ監督の映画『ブルーベルベット』。
話の始まりに、主人公は偶然、野原に落ちている切り落とされた「耳」をみつける。
これは怪談ではないけど、この耳のシーンは、真の怪談が持つぐみを十分に伝えてくれる。怪談とはこういう感触のものである。
ブルーベルベットの「耳」は、耳自体が怖いのではない。「野原に切り落とされた耳が落ちている」という不条理な状況の背後におぼろげに横たわっている「狂気の本体」が怖いのだ。
ベーシックな怪談
さて、ここ数年、怪談界では『山怪』という本が流行っている。山で遭遇した怪談だけを集めた本でわりと世間で話題になっており、ぼくも悪口を言う気はさらさらない。
大新聞なんかでとりあげられて、やたら話題になっていたので図書館で借りてみたんだけど、数ページ読んで返却した。まったくの入門編だった。ヌルいのである。『山怪』あたりだと、心がザラついたときのぼくが求める怪談の部類には入らない。
とはいえ、それはそれでいいのだ。怪談界がディープな怪談だけにハマってしまったら業界が枯渇するので、『山怪』のようなベーシックな怪談話で、怪談界のすそ野を広げるのは大賛成だ。北野誠さんも『山怪』の著者田中康弘さんを何度もご自分の番組にフィーチャーしておられるし、それはいいことだと思っています。
本物の怪談
ただしぼく自身は、いまちょっとディープでジャンキーな怪談を読みたい気分になっている。なので、買ったままで読んでいなかった松村進吉著『超怖い話 怪記』を読み始めたのだが、これなのだ!
こういう本物のジャンキー怪談を読みたくなるときというのは、心に澱(おり)のようなものが溜まっているときであり、そういうときだからこそ思うことがある。
生きやすい時代が来た
と。今の日本って先行きが暗いって言われているじゃないですか?
失われた30年だとか、少子化だとか、超高齢社会だとか、巨大地震の予感だとか、金融不安だとか、世界から周回遅れになっているだとか。
でもよくよく考えてみれば、それって、これまで常識的な世界でつつがなく生きてきたタイプの常識的な人にとって脅威なだけで、ぼくみたいなそもそも非常識な生き方をしてきた人間にとってはなんの脅威でもないんだよな。
今日言いたいのはこれである。
これまで、社会の片隅で生きてきて、不条理な現象が日常のすきまにぱっくりと裂け目を開けるのを見てきたぼくみたいな非常識人にとっては天と地がひっくり返ってくれた方が過ごしやすいし、ものすごーく生きやすい。
これを読んでくれている人がどういう人なのかわからないけど、ここまでぼくみたいな奴の文章に付き合ってくれているということは多少なりとも非常識な匂いに惹かれるタイプの人だと思う。だからそういう人たちに言いたいのだが、
と。ぼくらにとっては乱世のほうが生きやすいのだからメディアに同調して不安なんか感じる必要はない。廃墟マニアにとっては日本中が廃墟化したほうがおもしろいのと同じで、日常と怪談が地続きになりそうな非常識な時代がやってきたので、怪談マニアはこれからもっと息がしやすくなる。たのしみですね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?