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生きてるだけで「はなまる」つけてほしい日もある

以前、仕事のストレスで身体とメンタルのバランスを崩し、「これはまずい」と病院に駆け込んだことがある。半年近く前から会社でもSOSは出していたけれど、大きい組織なので配置替えに対する会社の腰は重く、なかなか聞き入れてもらえなかった。

藁にもすがるような思いで向かった病院で、お医者さんはひとこと言い放った。

「うーーん、もうすこし、がんばってみましょうか」

最後の藁を、目の前でブチッと切られた気がした。

「薬を出します。これ飲みながら、働きましょう!!」

あ、私はがんばれてなかったんだ。努力、足りてなかったんだ。なのに辛いとか言ってたんだ。

え、でもちょっと待って。これ以上努力しなきゃいけないって、生きるの大変すぎやない・・・?



死にたくはないけれど、「生きる」を続けるのしんどすぎる。女子高生のころ口癖のように使っていた「死にたい」の意味とはまったく別の重さをもって、その言葉が脳をよぎった。

どん底のタイミングで、「がんばってるよ、生きてればじゅうぶん」と何度も何度も言ってくれたのは同居人だった。

なんの生産性もない、誰の役にも立ってない。努力が足りていない私に生きる価値はない。そう思っていたから、「生きてればじゅうぶんなの」とくり返す同居人の言葉の意味を受け取るまでにしばらく時間がかかった。



だいぶ落ち着いた今なら素直に受け取れる。

誰だって、「生きてるだけでじゅうぶん」なのだ。


眠い朝、ベッドから出られれば200点。

会社につけば300点。

もし起きられなくて休んでしまっても、それはそれで身体を休めるという大事なミッションを果たしたのだから100点。


長距離走を納得いくまで走りぬけるために、たまにはそんな甘々採点で生きる日も必要なんだと思う。

サポートいただけたら、旅に出たときのごはん代にさせていただきます。旅のあいだの栄養状態が、ちょっと良くなります。