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自己紹介〜大学入学して理学療法士になるまでの話

ハロ〜!

今年で理学療法士としての臨床経験が記念すべき10年目!そんな中、一旦臨床を離れます。ということでいろんな思いを徒然なるままに記したいと思い、note始めました!

理学療法士を目指す学生や、今後どうしていこうかなんて考える若者たちにいろんな経験を伝えられたらと思っています。

前もって言いますが、私は「理学療法士になりたい!!」と思って理学療法士になったというよりは、人と接する・助ける仕事がしたいという漠然とした思いで、この職業を選択しました。

しかし、一生懸命患者さんと日々向き合うことで理学療法士という仕事に魅力を感じ、今はこの仕事にとても誇りを持っています!

1. なぜ理学療法士を志したか?

私は高校時代、数学がかなり得意で大好き、物理・化学を選択する理系女子であり、当然大学も理系に進むと思っていました

しかし、理系の学部は工学部、農学部、理学部、、、、全然興味ないwww

理学部も勧められましたが、一体将来どうなるのかイメージできない、、、

よって、人と接するのが好きという理由で医学部を目指すことにしました

その中でも医学科を勧められたこともありますが、当時私はクラシックバレエを習い事でやりつつ吹奏楽部に所属しており、友達と遊ぶことも好きで、やりたいことがたくさんある自分には仕事に人生を捧げたくないと思っていて、(学力が追いついているかはさておき)医者になりたいとは思えませんでした

自分が受診した内科で「医者は一生勉強だよ」とそこのお医者さんに言われたことも、嫌だなぁと思ってしまった理由の一つです笑(後に理学療法士も一生勉強だと気づくことになりますがw)

そんな中、理学療法士という職業がバレエダンサーやスポーツ選手との関わりがあることを知り、興味がわきます

一人一人とじっくり会話したい自分にとって、患者さんと接する時間が医者よりも長く、密になる理学療法士が面白そうだなと感じ、理学療法士を目指すことに決めました

地元静岡に近いこと、旧帝大に入っていること、そして推薦入試があるので挑戦する機会が多いという理由で名古屋大学に決め、無事に合格しました

ちなみに旧帝大を選択した理由は「七帝戦」という旧帝大限定の部活の試合みたいなものがあると知り、カッコ良くて何かやろうと思ったんですが、結局ストリートダンスサークルに入り、七帝戦とはご縁がなかったです笑

2. 早速打ち砕かれる道

大学1年の時の授業でグループワークがあり、私は興味のあった「理学療法とスポーツ」なるものを選択しました

ところがその授業で「スポーツの道は厳しい。トレーナーも枠が少ない。それゆえそのチームのトレーナーがやめない限り、働く場所がない」とスポーツ分野で生きていくことは厳しいと知ります

ん〜理学療法士って結局なんだろ〜と、あまり調べなかったこともあり、将来目指すものが読めなくなってしまいました笑

3. 突如現れる海外志向

大学3年の時、ふと、ボランティアや発展途上国のことに興味をもち、今しか時間はないだろうと思い、夏休みに3週間、NPO法人ACTIONがツアーをしているフィリピンのワークキャンプに参加しました

NPO法人ACTION  http://actionman.jp/ 

オロンガポという首都マニラから離れた貧困地域にあるニニョス・タタッグという、障碍を持ちながら孤児である子供たちの施設に基本は寝泊りしていました。それ以外はストリートチルドレンの支援をしている大学生のお家にホームステイしたり、ティポという市で公民館作りを地元のおじちゃんたちとセメントから頑張ってたので(これがこのツアー1番の仕事)ティポでホームステイしていました

この3週間で途上国に必要なのは物資ではない、そして彼らの心は豊かだと気づかされます

家も小さくてボロボロで蜘蛛とかヤモリが家の中に当たり前に入ってきて、シャワーがないからいつもバケツに水を貯めて、トイレは外で、電球は一個で、ゴミは道の脇に捨てて、ご飯も満足になくて、日本での生活がいかに安定して衛生的で守られているのかと感じました

でも、家が狭いから家族が必ず同じ場所にいる、ご飯は少ないから分ける、遊び道具も一つしかないから子供たちも順番に譲り合って使う、壊れた私のサンダルは、子供たちが試行錯誤して直してくれる。いつも笑顔で楽しそう

全然不幸なんて思えなかったです。むしろこの3週間で、譲り合う精神とか、壊れたら買えばいいやって思ってたものも直してみようとか、人と物に優しくする気持ちが育って、心がホワホワした幸せな状態で日本に帰ったことを覚えています

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そんな中で不平等を感じることもあった。ティポで私たちは初めてきた日本人ということで肥満体型の市長に招待されてフルコースのご飯を食べ、写真を撮られた(取材された?確か)。市民があんなに痩せ細ってるのに、市長はあんな太ってて、このフルコースもみんなに食べさせてあげたいって、ボランティアにきたみんなと泣いた。不幸って勝手に周りの人が作り上げているんだと思った

ただ当然、この生活を維持するのもギリギリで、病気はすぐに治せなかったりと本当に支援が必要なところもある。フィリピンで出会った大学生たちは「英語を勉強して、ちゃんと大学も行きたい。出稼ぎにも行きたい」と夢を熱く語ってくれた。自分とは教育に対する真剣さが全然違うと反省…

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とにかく、自分の周りにはチャンスが溢れてるのだから一生懸命1日1日を生きる!!と心に誓い、そして、この発展途上国のみんなが安心して生活できるように、みんなが教育や医療を受けられるように、自分もいつか理学療法士として発展途上国に貢献するんだ!!と夢を新たに持ちます

4. 実習で感じた違和感

大学4年の実習先では「この疾患はこの治療」と決まっているような形で、理学療法士じゃなくてもできるのでは?と思ってしまうことがありました

技術としての魅力は残念ながら感じられなかったんですが、やはり受験の時に思い描いた「患者さんと長い時間、接する」ことはできると感じました

小児センターでは、先天性疾患を持つ子供を初めて見たのでショックを受けて「自分が子供の時に普通に遊んでた時間もこの子たちはリハビリ頑張ってるんだ」とか「かわいそう」と思って家で泣いていました。

そのことに関してはバイザーから「一緒に遊ぶお姉さんじゃなくて理学療法士なんだ」と喝を入れられたり

保育士をやってる友人からは「かわいそうって思うことでかわいそうになると思う。その子たち自身はどう思ってるのかな?本当にかわいそうなのかな?」と言われ

患者さんや家族の気持ちに”本当に”寄り添うこと、自分の物差しで物事考えちゃいけないことを学び、そして最大限にその子たちの能力を引き出すことが使命なんだと理学療法士として大切であろう考え方を学びました

そしてただただ、普通に歩けることにありがたみを感じる日々になり、患者さんを通じて自分の健康や人生を考える機会となりました

5. そして大学病院へ

基本的にピーターパンシンドロームである私は、働きたくないゆえに大学院進学も考えました。しかし、自分の所属していた再生医療の研究室(ES細胞やiPS細胞を使用していた)で本当に続ける覚悟があるのかと言われるとそこの思いも少なく、気合を入れて就職することに!!

条件は毎日気持ちよく働けるような大きくて綺麗なところ、いろんな科が診れる総合病院という2点であり、ちょうど募集のあった大学病院を受け、無事に働くことになりました

大学時代はダンスに勤しんだこともあり成績もよくなかったし、まだ理学療法士ってなんだろうという感じだったので、社会人になるのはワクワクよりもソワソワの方が大きかったです

それでも、一生懸命やってみないと面白味もわからないだろうということで、大学病院の任期である3年は修行だと腹をくくり、何があってもへこたれずにとにかく一生懸命頑張るぞ!3年過ぎたら何かしらの形で海外にいくぞ!!と思うのでした^^

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