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自由を感じる、スープの時間

昨日はオモケンパークさんにてポップアップ2日目。
何も実績の無い私にとって、本物の飲食店で何かを出させてもらうことは、とても学びの多い機会になる。今回もめっちゃ勉強になった。次回3回目を経て、改めて言葉にしてみたい。

また、午後は以前から予定していた、哲学カフェ@熊本市現代美術館。友人が主催をしていて、予定が合ったので参加してみた。最近は、自分自身については割とすっきりしてきたけれど、社会のことや事業のことを考えたときに、言葉にならないモヤモヤがある。それを表現したいからか、哲学やアートに関心が向いてきた。

哲学カフェでは、さっちゃんという方が話し出すところから始まり、それぞれが浮かんだことを言葉にするかたちで、20名ほどと一緒に3時間くらいの時間を過ごした。私は「スープの時間」をなぜやりたいのか、行動のみ生まれていて言葉が追いついていなかったけれど、図らずも、それを言葉にしていくプロセスとなった

今回は、参加しての気づきの言語化を試みる。

なぜ哲学に関心が向いたのか

私は今、仕事柄、中高生の自発的なプロジェクト、に関わることが多い。私の一つの大きな問いは「一人一人がのびのびと探究できる環境はいかにして可能か」ということだ。

中高生のプロジェクトでは、ただアクションを重ねるだけでもいいのかもしれないけど、もっと問いの変化を面白がったり、問い自体を発見する行為がより大切なんだろうと思い始めた。それは、何を目指すかという目標が、社会全体をみても個人の人生をみても正解がないように思える昨今だからだ。

今、何に心が揺れるのか。今、どんな感じがしているのか。自分はどう考えるのか。そういうことへの感度や解像度を上げていくことが、のびのびと生きていくことにつながっていくんだと思う。私は、哲学やアートにもっと触れていきたいし、そういう機会を増やしてみたい。

違和感をそのままにするとどうなるのか

私は、先生と生徒や、先生と患者のような関係性の中で、自分自身が先生という立場であることが苦手だ(そういう場面はほとんどないけれど)。そういう関係性を否定することは全くないが、私自身がそうありたいと思えないというだけだ。分からないことは教えてもらうし、分かることは伝える、という関係性で学び合えることが嬉しい。みんなが先生で、みんなが生徒という関係性が好きだ。役割は流動性があっていい、という状態が心地よい。

役職には、「こうあらねばならない」というレッテルが貼られやすいのだなと思う。今回の哲学カフェに参加してみて、そういったことにもやもやし、苦しむ声が多く聞かれた気がする。こうあらねばならないことなんて、本当にあるんだろうか。誰もが一人の人間だ。

違和感を覚えていても、思ったようにできない、という状態。そういう状態の人が、思った以上に多くいるのかも知れないと、哲学カフェの参加者の方の声を聞いて感じた。でも、周りからそうされているように思い込んでいるけれど、もしかすると自分で自分をそうしているのかも知れない。自分で自分にレッテルを貼っていないか。

ここまでは自分の考えとしてあったけれど、哲学カフェの関わりで一つ考えが深まった。それは、違和感を覚えていて思ったようにできない、という状態を続けることは、果たして組織にとってパフォーマンスが上がることなのか。本人にとっての結果として、良いものになるのかどうか、ということだ。ぜんぜん良い結果を生めるイメージが持てないよな。だからやっぱり、自分に素直にいていいんだと思う。素直になるか、素直にならないか、メタ認知して使い分けるという手もあると思う。

なぜ、自由になれないのか

では、なぜ自由になれないのか。そこでのさっちゃんの考えは、こうだった。(多分)

マズローが言ったように、下の段階から始まる。愛の欲求と承認の欲求の段階では、「~から」という理由がつく(誰かに愛されたいから、誰かに認められたいから、ということかな)。それぞれが満たされると、自己実現の段階に入る。そこが、自由な段階。

⑤自己実現 「自分がこうしたいからやる」
↑(誕生のもやもや)
④承認

③愛

②生理的なこと

①命
※逆三角形
※違ったらスミマセン

なるほど。マズローの欲求の話は聞いたことがあったけれど、この文脈で聞くと、ものすごく新しいものに聞こえた。私は、スープ屋として「みんなが先生、みんなが生徒」「やりたいようにやる」ということを大切にしたスープ作り体験をしたい、と思っているけれど、これは自己実現につながる感覚を得る、と言うことなのかもしれない。実際に人が自由を感じて過ごせるには、愛や承認が前提なのかも知れないけど、でも自己実現の感覚を得てみる体験は、みんなでしてみると楽しそうだと思った。

もう一つ、さっちゃんが言っていたのは、「ペア」という考え方。自分自身の在り方が、相手をつくる(大きく影響する)、ということ。○○な私がいることによる、そのペアの友人。そのペアの仕事仲間。そのペアのパートナー。いやはや、ホントそうだな。私自身がどうありたいか、もっと遠慮無く大切にしていきたいと思った。

何かもっと書ける気もするけれど、ちょっと疲れてきたのでこの辺で。昨日は一日濃厚な日でした。みなさんありがとうございました。またどこかで。


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