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クリス・オウエンのツイート - なぜロシアの兵士はウクライナでの戦闘をやめて家に帰るのか? パート3

なぜロシア兵はウクライナの戦場で壊れるのか?このシリーズの第3回目は、個人的な戦争体験が、ロシア人契約兵を、どのように命令を拒否し、契約を破棄し、帰国しようとさせたかを見ていきたい。

第1回目(パート1)では、一般のロシア兵がウクライナで戦う動機となっている要因に触れた。リンク

第2回目(パート2)では、ボランティア(契約兵)の不十分なトレーニングと装備の不足による士気の低下、更に最前線に到達する前に物資が略奪される様子を取り上げた。リンク

ウクライナ戦争の性質は、ロシアが1940年代以降に経験したものとは異なっていることは、最初に指摘しておく価値がある。コーカサスや中東で戦ったことのある人でさえ、ウクライナの本格的な産業戦争のようなものは見たことがない。

ウクライナで犠牲者になる可能性は、第2次世界大戦後にロシアが行ったどの紛争よりもはるかに高い。現在の傾向では、ウクライナ戦争は過去200年間で最も死者の多い紛争の1つになる可能性が高いのだ。

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最初のスレッドで、多くのロシア人兵士は金、イデオロギー、仲間意識、経験によって動機づけられていると書いた。しかし、棺桶に入って戻ってくれば、そんなことはどうでもよくなる。特に悪い指揮官のせいであれば、確実な死に直面したとき、動機はしばしば萎えるものだ。

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2022年3月に契約兵として軍に志願したロシア人、ヴィクトル・シェイガの目を通して、戦争を見てきた。彼は4月上旬にウクライナに入り、ハリキウの東にあるイジューム付近で第752親衛自動車ライフル連隊で戦った。

ロシアは、イジューム南方のスルィヒフカ村とドフェンケ村の攻略を繰り返し、大きな犠牲者を出している。3ヶ月の戦闘の後、スルィヒフカはまだ争われている。(ドフェンケでは大砲がロシア軍を破壊している映像がある)。

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シェイガの中隊は13人で構成され、1 週間後に、ロシアから直接派遣されて最小限の訓練を受けた13 人の新たに採用されたボランティアによって補充された。 隊が最前線に移動する前に、彼らは戦闘を拒否する選択肢を与えられた。

「朝になると連隊のザンポリート(政治担当官)が来た。彼は、我々はサタンの野郎の所に行くので、希望者はこの農場で断ることができる、後で誰かが戻りたいと言っても、彼は誰も連れて帰らないと言った。モスクワのワシリイ少尉が一人、拒否した。他の者は皆行った。」

部隊の上級下士官が戦いたくないというのは、良い兆候ではなかった。シェイガは後で、その部隊のスターシナ(一等軍曹)も戦闘に参加しないようにしていることを知った。

最初の攻撃は、ウクライナ人の住むドフェンケ村の占領を試みた。しかし、近くのスィヒフカに入ったところで激しい砲撃に遭い、それ以上進むことはできなかった。

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「俺達が歩いてると、ウクライナ軍が我々に気が付き、Grad(BM-21多連装ロケット砲)や迫撃砲で砲撃し始めたんだ。

2回目の、かなり大規模な砲撃の間、俺はすでに自分の人生に別れを告げた - 次の爆弾が俺の足を引き裂くか、即座に殺されると思ったんだ。本当に怖かった。」

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頓挫した攻撃は、翌日の4月20日に延期された。しかし、ロシア兵の間では、この作戦に対する熱意はあまり感じられなかった。

「第752連隊の2つの大隊の多くの中隊長は、ウクライナ人が十分に準備しているから、俺達は確実に死に追いやられると戦闘員に言った。」

「そこで奴ら(指揮官)は、行くか行かないか自分で決めろと言った。俺達の5分の4は(それ以上でないにしても)行くのを拒否した。俺もそうした......単純に突撃し続ける体力がなかったからだ。」

連隊は十分な志願者を見つけたが、車両がなかったようである。その代わりに彼らは、迫撃砲や砲弾、戦車による絶え間ない砲撃の中、広い田園地帯を7キロ、6時間かけてドフェンケまで歩いた。多くの兵士が死亡し、シェイガの司令官を含む多くの兵士が負傷した。

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「大隊長のヴァシューラ少佐に死傷者のことを報告すると、“彼らを置いて前進しろ!”と罵倒された。」

経験の浅い将校達はどうしていいか分からず、ボランティア契約兵の一人である40歳の戦闘経験者に向かって言った。「みんな、退却しよう。さもないと迫撃砲で粉砕され、生き残った者は仕留められてしまう。」

彼らはドフェンケに退却し、23時になってようやく戻ってきた。「志願兵で俺と一緒に来たクルスクのアンドレイが言うには、退却中に多くの兵士が逃げ出した。彼は負傷者を救い出すのを助けるよう叫んだが、奴らは助けなかった。」

「彼は、アサルトライフルをつかみ、奴らの背中を撃ち始めたかったと言った…こうして、4時間引きずられたグレネードランチャー小隊長のニコラエフ大尉は失血死した。」

翌日、シェイガの部隊のほぼ全員が別の攻撃に参加することを拒否した。

他の部隊もドフェンケを攻撃したが、これ以上の成功はなかった。ある攻撃では「8台の戦車と歩兵がドフェンケに入ったが、陣地を取るより進み続けることにしたため、戦車兵が前進してほぼ全員が被弾し、その後、歩兵も押し出された。」

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特殊部隊(スペツナズ)や空挺部隊もドフェンケの奪取を試みたが、撃退された。訓練された予備役の部隊が到着し、1ヶ月かけて村を襲撃した。「合計で340人がウクライナに到着した。1ヶ月の砲撃の結果、57人しか残らなかった。」

「しかも、生存者の半数は本部にいた。そのほとんどが負傷していた。一度も銃撃戦をしたことがなく、損失は全てウクライナの砲撃によるものだった。」

新しい志願兵は、ウクライナに到着すると直ちにドフェンケの攻撃に投入された。5月までに将校は全員、死傷するか、攻撃を拒否していた。

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「将校がいなくなったので、志願者(チェチェンやシリアで戦った者)の中から最も堅い者を選び、シニアに任命し、無線を持たせてドフェンケに突撃させた 。」

ロシアのテレグラム・チャンネル「ミリタリー・インフォーマント」で紹介された、ある失敗した襲撃事件では、(通常100人ほどの兵士がいる)ロシア軍中隊が、20人の歩兵、4台のBMP歩兵戦闘車、1台の戦車に絞られたため、ボランティア(志願兵)のグループが支援のために派遣された。

ウクライナの激しい抵抗はロシア軍を釘付けにし、撤退を余儀なくさせた。「戦車はウクライナ軍の陣地に着手さえしておらず、BMPは自軍(側)の砲撃によってのみその存在を際立たせた」攻撃計画はすぐに失敗した。

負傷した部隊長は手榴弾だけで村に取り残され、自爆した。3人のロシア兵が殺された。生き残ったロシア人戦闘員は全員負傷していた。ドンバス、シリア、リビア、チェチェンの退役軍人でさえ、これほど激しい戦闘を経験したことはなかった。

シェイガを含め、砲弾に衝撃を受けた残党の何人かは、ヒッチハイクでトラックに便乗してイジュームに戻った。「我々の部隊の非常識な突撃の後、森に散らばった」者もいた。

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「すぐに戦場に放り出され、お互いのこともよくわからないまま逃げて来たんだ。今、奴らは小集団で森をさまよい、誰にも近づかせないと聞いている。もし誰かが "俺達はお前達の仲間だ!"と叫んでも、とにかく撃ちまくるんだ。」

しかし、ロシア軍には脱走兵を射殺するような第2次大戦型の“阻止部隊”は存在しない。その代わり、「PMC(民間軍事会社=傭兵)の1つが、我々の(占領)地域の森や野原で、そういう兵士達を集めるという目的を持っていた」とシェイガは言う。

(これは悪名高いワグナーグループのことで、その兵士達は6月初旬にドフェンケの東の森で写真を撮られた。)

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「彼ら(PMC)はスルィヒフカ近くの潅木で2人の仲間を拾った。スルィヒフカでの2週間で軍服がすっかり擦り切れたので、食事を与え、新しい軍服を与えて、イジュームに連れて行った。」

後方では、シェイガら「拒否者」が労働大隊として使われた。「塹壕を掘ったり、土嚢を担いで師団司令部を補強したり、壕のための松を伐採したりした。ほぼ毎日、新しい『拒否者』を連れてきていた。」

「俺達よりももっと悲惨な目に遭わされた」と、次々とやってくる体験談に、シェイガ達のやる気も失せた。
偶然にも、ウクライナ当局は、第752GMRの別の兵士がスルィヒフカでの体験について話す電話を傍受していた。

「(俺の中隊には)107人いたが残ったのは10人だ。そのうち4人が去り、6人が残った。第一小隊からは俺ひとりが残った。第一小隊には22人いたが、残ったのは俺だけだ。」

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「2日前、ここで攻防があった。752(連隊)がウクロープ(ウクライナ人の蔑称)を攻撃し、25人が死んだ。25人だ、25人のクソ野郎が死んだんだ。簡単に、25人が死んだ、全部で“200人”(死者)だ。完全な虐殺だ。全くバカだ。テレビで言っていることなんか、信じるな、信じるんじゃない。」

「ここは完全にクソだ。大量の死体、大量の壊れた戦車、まるでクソだ。」- 傍受された電話の会話

この攻撃の1つがウクライナ人によって撮影された。報告では5台のBMPと未知数のロシア兵がウクライナの砲撃で破壊された。

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何度も襲撃に失敗したドフェンケ周辺は、まるで屠殺場のような状態だった。シェイガは、その後の攻撃に参加した部隊から、村に近づくと「すぐ近くに、死んだ兵士の死体が転がっている」と聞いた。

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「当時、既に(死体の)腐敗が始まっていて、膨張しているものもあった。また、死体が潅木の中に積み上げられているのを見たという者もいた。負傷者が3日間も塹壕の中にいて、誰も拾って来てやることができなかったと言うんだ。」

当然ながら、シェイガは指揮官の決断を軽蔑している。これは、多くのロシア兵の戦争に関する記述に共通するテーマである。次のスレッドでは、ロシア兵が自軍の戦争における指揮、戦術、戦略の稚拙さについて語ったことを見ていこう。/終

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