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光源氏の美しさ 『窯変源氏物語』にみる光源氏の容貌・舞楽・装束


1.彼の美貌


 彼は語る。

    男が男を女として見ようとするのは、さして不思議な美意識ではない。(中略)
 私はそのような男達の視線に慣れている。私から、そうした視線を男達の上に投げることにも慣れている。私達の時代、人の美しさとは〃女〃に擬えられるようなものであったのだから、(中略)

p286,橋本治『窯変 源氏物語2』紅葉賀,
中央公論社,1991

 彼とは誰だろう。
    また、女に擬えられる彼の容貌とは、どのようなものであっただろう。

私の宿直所にやってくる男達は、(中略)すべて直衣に指貫袴をつけている。(中略)     そして、その男達を迎え入れる私は、白い下襲の柔らかものを重ねた上に、直衣ばかりを羽織る。袴もつけず、しどけない姿で脇息にもたれかかっている。襟元を止める入紐もはずし、首筋をのぞかせて灯火の下に横たわっている。   これで私の前に几帳でも据えてあれば、このしどけない形をした私は、立派に女だ。

p,橋本治『窯変 源氏物語1』,
中央公論社,1991

   久々の対面に私の顔をご覧になった帝は、私の容貌に不吉なものをお感じになったという。「神をも魅入らせる美貌」という表現がある。

P41-44,橋本治『窯変 源氏物語1』桐壺,
1991,中央公論社

 時の帝に最も寵愛せられた子供が、その寵愛と共に帝位につけば世は必ず乱れると、私の素性を知らぬまま占ってしまった男が、それと同時に、世を乱す筈の私を「光君」と呼んだ。
 その言葉はいつしか広まり、世人は皆私のことを「光君」「光源氏」と呼ぶようになった。私の美貌が光り輝くようなものであったからだ。
 しかしそれならば、一体その美貌なるものにはどのような意味があったというのだろうか?
 美とは力である。制度格式でがんじがらめになった貴族たちの社会を揺るがす力である。それ故にこそ、「国は乱れ憂慮すべき事態が出来いたしましょう」と、人に言わせる〃畏れ〃である。
 それ故にこそ、人は美に不吉なものを感じ取る。人の胸を慄かせるような美は鬼神の胸をも轟かせ呼び寄せると人が言い習わすのも、美が人の世に棲む空虚を衝き動かし、人を不幸へと追いやるからだ。

p75‐76,橋本治『窯変 源氏物語1』帚木,
中央公論社,1991

 「女の様に美しい男」であり、「神をも魅入らせる美貌」を持つ「彼」とは、光源氏である。

2.曲舞・白拍子・能『杜若』と、舞人としての光源氏の類似

 曲舞・白拍子、いずれも中世の芸能で、一般的には男装の女性が舞うことに特色があるとされるが、筆者は女性に男装の装束を用いることで、実質的には少年装の効果を意図していたのではないかと考えている。少年の持つ中性的な美しさを、少年が表現するのではなく女性に投影することで、この美意識は昇華され、芸能上に完結していたのではないか。

<『杜若』あらすじ>
 これら曲舞・白拍子と、装束上で似ている演目が能にある。『杜若』である。旅の僧が八橋という杜若の名所で、盛りの杜若を愛でていると、ひとりの女が現れる。女は、一夜の宿を貸すということで僧を庵に案内し、装いを改めた姿で現れる。その際に女は、自分は杜若の精だと明かす。
 みごとな唐衣と透額(すきびたい、額際に透かし模様の入った男もの)という冠を戴いた姿で、杜若の精は舞い、謡う。
 透額(冠)は、八橋にゆかりのある『かきつばた(からころも【唐衣】 き【着】つつ馴れにし つま(妻)しあれば はるばる(遥々)きぬる たび(旅)をしぞ思ふ)』の歌を詠んだ、在原業平のものだという。
 杜若の精によれば、在原業平は歌舞の菩薩の化身で、この世に生ある者たちに光を振りまく存在であり、彼の和歌は草木をも救う力があるという。杜若の精は、『伊勢物語』から在原業平の恋・和歌を引用しながら、幻想的に雅に舞う。やがて杜若の精は、在原業平の和歌と同様に、生けるものは草木をも含めて仏に導く力を授かり、悟りの境地に至って、夜明けとともに姿を消した。<あらすじ、完>

 その行為は、杜若の精自身が悟りの境地を得るための一種の救いでもあったのだろう。在原業平の和歌には、「草木をも」仏に導く力があるそうだから。

 当時(室町時代)、能とは男が演ずる芸能だから、身体的には男の演者に、実質少年装の女、という役が乗っかってくるのである(なんともややこしや…)。これは能の謡曲『井筒』にも同じことが言える。
 身体的に男の存在の上に、少年めいた女の幻想が乗っかってくるのである。もうお気づきかもしれないが、その構造が、「女の様に美しい男」である光源氏の在り方と結びついてくる。
 『杜若』『井筒』ともに、舞台上では、恋多き歌舞の菩薩・在原業平の装束を女役が身に付けて舞う、という設定になっている。ここに、美男であると伝わる「在原業平の装束」というゆかりも手伝って、身体的には男の能役者の「女の様に美しい男」というある種の暗喩と、架空の美男である光源氏との、外見上の類似性が現れてくる。
 ただし、面を着けない状態での美しさが描かれる光源氏は、『源氏物語』の概要を知る人には当たり前すぎる話ではあるが、容貌の美にカリスマ性のある人物であるということは再確認できる。
 また『杜若』のシテ(主役)は女の姿をした杜若の精、『井筒』のそれは女の霊であり、この世のものではない。そこが、能役者が身体的性別・装束・芸によって、光源氏が容貌で表す、「この世ならざる美しさ」ではないかと思える。

 光源氏が装束を着けた姿の美しさは、紅葉の錦がかすむほど。

    序の舞が終わり垣代の内に姿を隠すと、私と頭の中将が姿を現わす。
    萌黄緑の麹塵袍に水鳥と大海原の模様を染め抜き摺り出した装束の裾を長々と引いて、朱金の鳥甲──その挿頭につけた紅葉の枝を、「あなたのお顔の色に会っては紅葉の錦も黝むばかり」と庭前の白菊に手ずから差し換えたのは、直属の私の上司左大将。
    紅葉を挿頭す頭の中将と白菊を挿頭す私の舞に合わせて、彩々の木の葉が散りかかる。

p277,橋本治『窯変 源氏物語2』紅葉賀,
中央公論社,1991

 そうしてさらに、『窯変 源氏物語』では、若き日の光源氏は自身のなかに少年の心があることを認めている。

私の中には、幼い少女と通ずる〃少年〃も住む。

P282,橋本治『窯変 源氏物語2』紅葉賀,
中央公論社,1991

つまり、「女のように美しい男」の実態は、正しくは「少年性を持つ女のように美しい男」なのである。
 以下の引用は、上記の装束とは別の舞であるがしかし、光源氏の舞は、やっぱり俗人離れしている。

   青海波の駘蕩たる波を見せて、私の袂が翻される。 袂に降りかかる日の光
 が煌めいて、黄金の波頭を庭上に現出させる。(中略)
    帝は涙をこぼされる。傍らに居並んだ上達部や親王達も、私の描き出した幻像に撃たれて、はらはらと涙を溢れさせる。(中略)
    次代の帝である春宮の母女御・弘幑殿は、その私を見て、例の如く憎々しげに言い放つ。
「なんという恐ろしくも禍々しいお姿であろうか。今この地に鬼神も姿を現して、攫っても行きそうな按配ではないか!」(中略)
    鬼神なら、既にもうここにこうして姿を現しているものを。
    私の本質を見抜くものは弘幑殿の女御、唯一人だ。
    私の魂は鬼神に襲われて、既に尋常の人の世からは遠く隔たっている。

p287-288,橋本治『窯変 源氏物語2』紅葉賀,
中央公論社,1991

 藤壺の宮への想いゆえ、周りを凍てつかせるような凄絶な迫力で、鬼神めいて妖美に待った光源氏は、後の室町の世で曲舞の物狂いを演ずる能役者に似ている。舞そのものが、何かの憑代に演者がなる、という性質を持っているだけに、美麗なシャーマンの素質がそこに見え隠れする。
 作中での優れた舞人の素質には、「少年性をもつ女の様に美しい男」「神をも魅入らせる美貌」があり、それは一種のシャーマンである、と考えることはできないだろうか。

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