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【短編】幸せな人生とは

白熱灯の間接照明の下で、ふわりとしたブラウスにひらひらと揺れるスカートをはいたスタイルのいい若い女が、鏡の前に立って長い髪をなでた。
髪の毛が1本、床に落ちた。
流行のくすんだピンクのリップを塗って、細い指でなじませると、美しい女はふっと微笑んで、ポーチをバッグにしまうと、ちらっと私のほうに目をやると、何も見なかったかのようにヒールの音をタイルに響かせて出ていった。
私は、彼女は落とした髪の毛を箒ではいて、塵取りですくうと四角い緑のカートの白いごみ袋に放り込んだ。
鏡の前に立って、先の女のようにふっと微笑んでみた。
鏡の中で、薄いグリーンの作業着に身を包んだ背の低い、小太りの女がほほ笑んでいた。
さっきの女と年齢は変わらないくらいだと思うが、化粧っ気のない顔は、少し幼く見えるかもしれない。

私はビルの清掃を請け負う派遣会社に登録している。
時給950円、時間は1日2~4時間。
派遣会社に紹介されたオフィスビルに行って、掃除をするのが仕事だ。
1日1つの仕事では生活できないから、6つの派遣会社に登録して、月曜日から金曜日まで、日によって異なるけれど、だいたい朝8時から夜5時までの間で働く。
週末は絶対に働かない。
そう決めている。
できるだけ距離の離れていない品川あたりのオフィスビルを選んで、1日に2つから3つのビルを効率よく回る。
移動時間も自分で計算してシフトを入れないといけない。
まるでアイドルのマネジャーのように、うまくアレンジできる自信がある。
自宅から現場までの交通費は支給されるから、その範囲内で電車に乗る。
無駄な交通費は使いたくないから、できるだけ徒歩で移動する。

天気のいい日は、公園で、雨の日は駅のフリースペースで、具のない、味のしないおにぎりを2つ、水筒に入れた麦茶とともに口に押し込むだけの昼食。
一緒に働く人のよさそうなおばさんに、一緒にお昼をしようと誘われたこともあったけれど、嫌われないように丁重に断った。
友だちなんていらない。
子どものころから、友だちと呼べる人はいなかったし、ほしいと思ったこともない。
むしろ、人とかかわることなんて時間の無駄だ。
自分にウソをついて、自分を守るために虚栄を張って、心をすり減らなければならないなんて、ばかばかしい。

仕事はいたって単調だ。
指定された制服を着て、決められた場所を時間内に清掃する。
完全にきれいにする必要はない。
目につく汚れを落とすだけでいい。
それよりも大切なことは、絶対に目立たずに、その仕事を終えること。
もしも、誰かに目を付けられるようなことがあれば、この仕事はできなくなってしまう。
そうしたら、生活できなくなってしまう。
とにかく目立たずに、言われた仕事だけをして、その場から消える。
それで、1日の仕事は終わりだ。

責任はあるようでない。
一緒に働く人の中には、仕事に誇りを持っているだとか、職業に貴賎なしとかいう人もいるけれど、そんなことはどうでもいい。
頭も体もそんなに使うことなく、相応のお金を稼げればそれでいい。

一緒の働くおばさんたちが、ひそひそとあることないこと噂話をしている。
孤児で身寄りがないとか、親に虐待されて施設に保護されたとか、会社で不倫してクビになったとか、ないことないことに尾ひれがついて、私はまるで悲劇のヒロインだ。
笑っちゃう。
ビルで働く人たちが私を見る目もおんなじだ。
「若いのにかわいそうに」
トイレ掃除をする私をそんな目で見ている。
そんなことは気にしない。
私からしたら、かわいそうなのは彼らのほうなんだから。

金曜日の夜7時。
私は薄暗い部屋の中で、図書館で借りてきた分厚い外国の翻訳小説を開いた。
小さな窓が1つしかない、かび臭い日の当たらない4畳半の部屋が私の城だ。
品川のオフィス街から電車で1時間ほどのベッドタウン。
最寄駅から徒歩で20分。
バスに乗ればもっと早く着くけれど、そんな余裕はない。
近くに商業施設があるから、生活にさほど不便は感じない。
築48年。
母親が生まれたその年にこのマンションは建てられたらしい。
古い小さなビルは、鉄筋コンクリートの4階建てで、1階が郵便局になっている。
ワンフロアに狭いシングルルームが4部屋。
北向きの私の部屋は、窓を開けると、1メートルも離れていないところに汚れた隣の壁が見える。
部屋には、小さなキッチンと10年ほど前にリノベーションされたユニットバスがついている。
昭和レトロを感じさせる部屋に、不必要な家具はいらない。
洋服も必要な分だけ。
友だちに会うことも、何かの記念日に特別なレストランに行くこともないから、化粧品は持っていない。
本の中では、大金持ちの家庭に生まれた美しい娘が、大きなお城の中で何不自由なく暮らし、豪華な食事を食べ、前に彼女のために仕立てられたドレスを身にまとい舞踏会に行く様子が描かれている。
もしも私が彼女だったら、そんなことを思い浮かべながら、ページをめくる。

オーブンのタイマーが切れる音が鳴った。
バルミューダのオーブントースター。
この部屋で唯一違和感を放つ存在。
ずっとほしかったのを、やっと先月手に入れたのだ。
恵比寿の行列ができるパン屋さんで買った大きなクロワッサンが温まったようだ。
トースターを開けると、じりじりとバターが焦げる香りが部屋中に広がる。すでにお皿にはスクランブルエッグとサラダが盛ってある。
そこにクロワッサンを載せると完成。
ホテルの朝食のようなメニューだけれど、私には金曜日の夜だけの贅沢。
100円ショップで買ったグラスに、安い白ワインを注いで、小さなちゃぶ台に運んだ。

さっき、鏡の前で長い髪を落として笑顔を作ったあの女は、今頃、どこかのおしゃれなレストランでニセモノの友だちに会って、写真映えしそうな料理を前に、ニセモノの笑顔を作っているんだろうか。
職場でのセクハラやパワハラを訴え、悲劇のヒロインにでもなったつもりでいるんだろうか。
それを聞いているニセモノの友だちもまた、自分がどんなにかわいそうかとマウンティングしているんだろうか。
お互いの劣等感と虚栄心を隠しながら。
くだらない。
ざまをみろ、だ。

ケータイで「亡き王女のためのパヴァーヌ」を流した。
片手で本をめくりながら、クロワッサンをほおばる。
もっちりとした生地から、バターの塩味がしみだしてくる。
思わず、目とほほが崩れる。
匂いを嗅ぎつけて、太った猫が膝に乗ってきた。
7歳になる雌猫のメロ。
クロワッサンを持った手を高く上げて、メロのほほに自分のほほを擦り付ける。
全身が筋肉がほぐれ、幸せが体中からこぼれ落ちる。
私はこの時間のために生きている。
メロには私しかいないし、私にもメロしかいない。
これから先も、ずっとずっと。

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