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日本からのスカウトに揺らぐもイタリアに残る。

サボ太郎がイタリアに来てもうすぐ二年になる。イタリア人の女性と結婚して、ミラノの大学院に通ったり、スタートアップで働き始めたりと、大きな変化が連続した密度の濃い二年間だった。就職したことでイタリアでの生活の基盤もでき、ようやくひと段落といったところだ。ところが、生活が安定してきた一方、サボ太郎は自分の将来を明確に描けていなかった。イタリアに永住するのか、他の国に拠点を移すのか、日本に帰国するのか。考えても答えは出なかった。

日本からのスカウト

サボ太郎は将来的な日本への帰国の可能性も考えて、ビズリーチなどの転職サイトや転職エージェントに登録していた。といっても、積極的に仕事を探しているわけではなく、レジュメを登録して放置しているだけだ。

それでも、サボ太郎の元には日々多くのスカウトが届いていた。多い時にはほぼ毎日プラチナスカウトが届くこともあった。スカウト元の企業もさまざまで、GAFAをはじめとした外資系IT企業の日本ブランチ、大手日系企業、成長著しいメガベンチャーやシリーズAの資金調達を終えたばかりのベンチャー企業など多岐にわたった。

どのスカウトもイタリアに比べると高待遇なものばかりだった。外資系企業や大手日系企業はもちろん、ベンチャー企業でもマネージャー職やVPクラスの案件もあった。中にはサボ太郎のキャリアによくマッチした面白そうな仕事もあり、サボ太郎の興味を引いた。

「魅力的なスカウトがこんなにたくさん来るなんて、ぼくの市場価値もまだまだ捨てたもんじゃないな。へへ。」

と思ったりして、サボ太郎はちょっぴり浮かれたりもした。もちろん、スカウトは面談を確約するだけで、面接を通過して採用されるかは全く別問題だ。だが、スカウトがあること自体がサボ太郎にとって嬉しかった。

だが、興味を引く案件があるにも関わらず、サボ太郎はこれらのスカウトに返信をすることはほとんどなかった。理由は単純で、ほとんどの案件は日本での勤務が前提だったからだ。

帰国に乗り気になれない

ある日、サボ太郎は数あるスカウトのうち一つの案件に目が止まった。ベンチャーキャピタルで投資先のスタートアップの採用支援をしている人物からだった。シリーズAで資金調達したばかりの会社のCPOの案件だった。

サボ太郎としては、まだプロダクトマネージャーとしての経験が浅い自覚があり、この案件はまだ早い気がした。だが、将来のキャリアのために話だけでも聞いてみたかったし、あわよくば副業として関われないかという狙いがあった。サボ太郎は返事をして、リモート面談をセットしてもらった。

その面談はたった15分で終わった。このポジションは役員クラスのため、当然フルコミットでリモートではなく日本で働くことが前提条件ということだった。先方はサボ太郎が今イタリアにいることは知っていたが、すぐに日本に帰国すると思いコンタクトしてきていたのだ。サボ太郎はこの面談を通して、複雑な思いを持った。

「この案件、給与もポジションも仕事内容もよさそうだった。でも、仮にこのCPO待遇でオファーがあったとして、ぼくは日本に帰る選択をしただろうか。」

労働環境の違い

サボ太郎は日本への帰国の可能性を残しているのにも関わらず、日本で働くことに乗り気ではない自分に気がついた。そして、それがなぜなのかクリアではなかった。

もちろん、家族のことがある。イタリアでの生活基盤を築いたばかりで、ようやく落ち着いたところだ。妻はミラノで働いているし、今すぐに生活拠点を動かすことは現実的ではない。

そして、日本の労働環境にトラウマめいたネガティブな感情があることに気がついた。サボ太郎は東京で外資系IT企業などで働いてきた。優秀な人材が集まる一目置かれるような環境だ。とはいえ、長い労働時間、同僚や上司からの評価を気にする日々。成長しなければいけないという圧力、仕事や人間関係のマネジメントの難しさなど、大変な点を挙げればキリがない、ハードな環境でもあった。

一方で、イタリアの環境はサボ太郎にとって居心地がよかった。自分の裁量で進められる仕事。経験豊富で包容力のあるマネジメント。マイクロマネジメントやハラスメントとは無縁で、わからないことや慣れないことがあっても聞きやすくて心理的安全性が高いチーム。幸い、サボ太郎はチームに恵まれていた。

もちろん、イタリアの全てがいいわけではない。給与は低いし、言語によるコミュニケーションのバリアは想像以上に高く、ジワジワと生産性が落ちるのを感じる。日本にいた時のような効率的なプロジェクト推進は難しいし、メンバーの働き方に対するマインドセットも違う。もどかしく感じることは日常業務の中に多々ある。

だが、長所、短所をひっくるめて考えると、やはりイタリアの方がメンタルのストレスが少なく、気持ちよくのびのびと働けるという感覚をサボ太郎は持っていた。

競争から距離を置きたい

サボ太郎はコーヒーを飲みながら考えていた。日本で働きたくない理由として、他にもくだらない理由があった。

外資系IT企業やMBA時代の同期と自分を、無意識に比べてしまうことだ。前職の同期は他の外資系企業に転職して待遇を上げていたり、独立していたり、マネージャーに出世していたり、成長が著しかった。MBAの同期たちも高待遇の会社で働いているし、自分の事業を成長させている人もいる。

海外で働いているという比較的マイノリティーなキャリアで、待遇を下げているのはサボ太郎くらいなものだ。待遇だけならともかく、パフォーマンスに関してもそうだ。同期たちはそれぞれの環境で活躍しているというのに、イタリアで思うようなパフォーマンスを発揮できていないことにサボ太郎は焦りを感じていた。

サボ太郎は、今いるイタリアの環境は恵まれていると理解しつつも、自分の現在地が理想のキャリアからは程遠く、そこにたどり着くにはどうすればいいかもわからず、もどかしさばかりが膨ら、みもがき苦しむ日々を過ごしている。他人と比較しても仕方がないのだが、どうも気にしてしまう弱い自分から逃げることができないのだった。

イタリアで働いていることで、彼らとの競争という幻想から距離を置くことができるし、アイデンティティを保つことができる。何より、もし日本に帰ったらその競争に巻き込まれてしまうのではないかという恐怖感が帰国に二の足を踏ませるのではないか、とサボ太郎は思った。

やっぱりイタリアに残る

サボ太郎は、今の自分は日本に帰国しても仕方ないという結論に至った。それは、キャリアとしても人生としてもだ。

第一に、イタリアに残るのは家族を考えてのことだ。イタリアに来て約二年、なんとかサボ太郎は仕事を見つけて生活の基盤を築くことができた。

日本に帰っても、仕事はすぐに見つかるだろうがサボ太郎のイタリア人の妻が日本に馴染むのは大変だろう。特にこれから子供ができたり、ライフステージが変化した場合を考えると、サボ太郎の存在は家庭に大きなインパクトを与える。だが、サボ太郎は日本の労働環境で満足な家庭活動への参加ができるか自信がなかった。それで家庭が壊れてしまったり、妻を悲しませたりすることが一番怖かった。

外資系企業に勤めていた頃、子供の出産に立ち会えなかったことを武勇伝のように話している先輩がいたことをサボ太郎は思い出した。その人物は、忙しく働き、お金を稼ぐことこそ正義といった価値観を持っていた。その話を聞いたとき、サボ太郎は強烈な違和感を感じた。仕事と家族、どちらかを選ばなければいけないのであればサボ太郎は迷わず家族を選ぶし、その価値観は揺るがないと思った。

キャリアを考えてもイタリアで働いて結果を出していくことのほうがチャレンジングだ。もちろん、サボ太郎はまだ結果らしい結果を残せていない。そもそも、イタリアで働くこと自体が簡単ではない。そして、仕事で結果を出すことは、どの国で働いていたとしても簡単ではない。せっかくなら、その難しい環境の方がチャレンジしがいがあるとも言える。

そもそも、キャリアの成功とは何かという根本的なことを考えたとき、他人との競争と捉えること自体が間違いなのかもしれない。正解のない世界で他人の評価軸で生きることほど虚しいことはない。そして、キャリアを含め、人生は自己の責任のもと、自己の価値観で決断して進んでいくしかないのだ。

サボ太郎は、日本からのスカウトに揺らぎつつも、自分の価値観と照らし合わせて、イタリアに残ることを再確認した。この結論ははじめからサボ太郎の中にあったのだが、その結論を補強するためにあれこれ屁理屈をこねくり回した。こんな屁理屈に意味があるのかと自分で笑いつつ、それで自分を納得させることができるのなら、まあいいかと思った。

サボ太郎はたくさんのメッセージが表示されているiPhoneを閉じて、バルコニーから外を眺めた。遠くに望むミラノの高層ビル街に明かりが灯り始めていた。

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