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人という生き物や人生について思ったこと

この文章で言いたいことを短めに表すと…「自分を信じる。自分の身体で感じた情報を信じる。そして、他者もまた同様に、当人のセンサーを信じているという意味において他人を信じる。そうするとだんだん楽しくなってくるよ。」です。



「これだ!」と、感じたものだけを、行動に取り入れる。
「何かが違う…」と思うなら、違和感が覆されるまで絶対に、その違和感のある方へ進まない。

 こんな簡単なこと、ずっとしてきたし、できていると思っていたのだが、その精度に問題があったなと思うことが近ごろ多く、気づきを元に私の行動選択も変化してきている。


 焦っているときや、慌てているときは、今ここにある自分の感覚を無視して、これまでの経験や知識から算出されたベストアンサーをもとに突き進もうとしてしまう。
瞬発力や即時性を求められる時でも、必ず、現在の自分の感覚に耳を傾け、そこから得られる情報を加味した選択をする必要があると私は思う。


 少しでもそれを怠り、自身の古い感覚による選択が生じれば、少し先の未来に大なり小なり「一体自分は誰の人生を歩んでいるんだろう?」という類の、自分の人生を他者に乗っ取られたかのような疑問が湧いてくるだろう。
過去の自分は、現在へと自分を連れて来てくれたという意味においてリスペクトに値するが、その時の感覚は他者の感覚と同じ距離にあるのだ。


 自身の感覚を注視していても、どこかでそのチューニングが狂えば、結果的に自己の感覚を無視した選択をしてしまうこともある。
私の場合はそのチューニングを、慣れ親しんだ音楽や空の色、土や木々の在りよう、変わらずそこにあり続ける石や水に触れることで取っている。
それらに触れた時に感じる情報の変化で、自分の感覚の移行を感じ、自分の基軸のかすかな変化を自覚して、また世界と向き合うのだ。




 他者との対話において、世間での当たり前や限定された世界での常識、はたまた、ある特定の組織による正式な手続きを経ていないことからくる否定的な意見をもとに、自身の行動選択に文句をつけられるようなことが、生きているとままある。
言葉を発している当人の感覚以外(以上)のなにかを根拠にして誰かの選択を否定する、こういった声には欺瞞が隠れている。


 他人を欺く必要もなければその気もない場合、なにも当人の感覚以上の価値を言葉に付加しなくたっていい。
ただ「私はこう思う」と述べるだけで十分だ。(その言葉をもって信頼関係を維持できないような相手とはむしろ関わるべきではない。)


 欺罔の意図がないにもかかわらず、あるいは良心から、何かしらの決まりごとや礼節を振りかざす人もいるだろう、そういう人たちは単に自信がないともとれるが、自己欺瞞があることに気が付いていないだけだと感じることも多い。


 特定のなにかへの信仰心に嘘偽りがないことを根拠に、自己欺瞞があることを否定する人もいそうだ。
では、その信仰の対象となっているものについて、彼らは完璧に理解しているのだろうか。あるいは、これから理解しようとしているのだろうか。

 知りもしない経典を読みもせず、また、理解しようという意思すら持たず、ただ盲目的に「信じているんです」という言葉からは、信仰心よりも、自己を正当化し身の丈に合わない幸せを得ようとする執着心が透けて見えるように思う。


 何故なら、信じるというのは対象についてすべてを知ってなお、その意味するところに自身の細胞を浸してもいいと心を許すことだと私は考えているからだ。
つまり、信仰の中にある場合、真っ先にそのことを示したり、理由を述べる必要がない。本当に何かを信じているのであれば、自分の感覚の中にそれをインストールし、自分の五感と同等に扱ってよいのだ。

根底に信仰心がある場合であっても、特定の神の存在や科学やエビデンスの存在をアピールする必要はなく、やはりただ「私はこう思う」と述べるだけでよいはずなのだ。
そこにはもはや他人を納得させることのできる現実が伴っている必要すら、ない。


 他者との関係の中で、一般常識や法律その他、自身の権利を保障してくれるマジョリティの存在を持ち出す人たちの様子は、見ていて心地の良いものではない。
 ルールがなくては秩序を保っていると思えず、自身の感覚のありかを忘れてしまった様子の人間の姿からは、ある種の恐怖すら覚える。
 彼らは法律で決まっているから人を殺さないだけで、ひとたび国家が戦争にかじを切れば、無表情に人を殺すことができるのではないかと、うっすら私に思わせるのだ。

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