見出し画像

梅田の地下で、私は幼子に時間をもらう。

阪急線から大阪メトロに向かう梅田駅の地下街。ちょっとしたお店が並ぶ明るい通路を重たい足を引きずりながら歩く。

周りの人も仕事や用事を終え、帰路に着いているのだろう。空港にある平たいエスカレーターに乗っているように、みんな同じ速度で足を進めていく。

その人混みの中、ある親子とすれ違った。親と思わしき大人のがっしりとした腕に抱かれた小さな女の子は、その人と見つめ合い、ただ顔を横に振るだけでケタケタと大笑いしていた。
彼女にとってはその身動き一つでも、立派なおもちゃであり、アトラクションなのだろう。その一瞬が私の目に焼き付いた。


家族以外で大笑いしている人を見たのは、久しぶりだった。

人の顔の半分を覆い隠すようになってもう3年目。気がつけば人の笑顔のほとんどは画面上でしか見れなくなっていて、コロナになった後に出会った人の笑顔は、その人の笑い声や目の動きから、自然と自分で想像するようになった。

だから、久しぶりに凹凸のあるリアルな笑顔を見れたような気がして、嬉しかったのだと思う。


彼らの姿が頭から離れないまま、地下鉄のホームに降りる。
なぜ私は彼らのことが気になるのだろう。そんなことをイヤフォンから流れる音楽の片隅で考えた。

多分、彼らに目を奪われたのは、彼らが少し浮世離れしたように見えたからだった。
みんな同じ速度で歩き、その親子も同じ速度で歩いている。でも2人の間には2人独自の時間が存在していて、足早なその世界から少し離れているような気がした。
なぜか私は、そこにちょっとした安心感を得たのだと思う。

なにか小さなことを共有するだけで、そこに時間が生まれ、空間が生まれる。それは大きな「社会」という実態のない空洞に飲み込まれていない彼らの世界であり、排他的ではあるけれど、その人を守ってくれる世界でもある。

社会が規定する時間を穏やかに破っているが、誰も傷つけていない。自分の時間をちゃんと守ることが自分を守ることにもなるのだと気づいた。


多分私は、自分の持っている時間感覚を大切にしてほしいとその子を鏡にして自分に祈っていたのだと思う。大きく外側にある時間に身を委ねながら、自分の内なる時間にも耳をすませる。社会との関わりとは、その揺らぎ合いであり、折り合いをつけ続けることなのではないかと思っている。

人と同じ速度で歩きながらも、自分の時間を持ち続ける。
そんな独りよがりで痩せ我慢かもしれないものに憧れてしまう自分は、やっぱり面倒くさい。

ふりふりと
横に顔振り
けらけらと
笑う幼子
そのまま育て

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?