進路に迷い、疲れ切った私を支えてくれた本~ユルスナールの靴~
なんてきれいな装丁なんだろう。と思った。
柔らかいクリーム色で全体が覆われ、表紙の少し上に海の地平線が長方形に切り取られている。そこに黒の明朝体で、本の名前と作者名が書かれている。
手に取ってみると、程よくつるっとした質感。新品だったらもっとつるっとして張りがあったのかもしれないが、不思議と手になじむ感覚は、その本がいろんな人の手に渡ってここまでたどり着いたことを物語っていた。
題名に出来る「ユルスナール」という言葉もわからない。私は普段からよく本を読む方だけど、「須田敦子」という作家の名前にはまだ出会ったことがなかった。だから、分かった単語は「靴」だけ。
それでも、なぜがその「ユルスナール」という独特の響きと、その耳障りの良さに惹かれ、手に取ってぺらぺらとページをめくった。
小説なのか?エッセイなのか?はたまた何かの専門書なのか?
目次を読んでもピンとこず、ページをめくると冒頭の文章に出会った。
きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思い続け、完璧な不幸をかこちながら、私はここまで生きてきた気がする。
なんて美しい文章なんだろう。と思った。
同時に、私の心の奥がぐっと痛くなった。
「私もそうだったかもしれない」と心の深くで共感していた。
まだどんなジャンルの本かわからないけど、今の私に必要な本だ。
そんな確信を持ち、この本を迎えることにした。
2人の女性。2人の孤独。
この本のジャンルは一応小説になるらしい。だが、読んでみると一概に小説とはいえない感じがする。
物語の主人公はマルグリット・ユルスナールという女性で、小説家。「ハドリアヌス帝の回想」など多くの著作を残し、由緒あるアカデミー・フランセーズの会員に女性で初めて加入したフランスを代表する小説家だそう。ベルギーに生まれているが、昔からいろんなところを転々とし、アメリカや日本にも訪れていた。
この本では著者の須賀さんがユルスナールが訪れた場所を追いながら、彼女の人生を描いていくというもの。そして、追いながら須賀さん自身の人生も物語の中に織り込まれていく。
ユルスナールと須賀さんは生きた時代も、場所も大きく異なる。でも、読み進めていくうちに、今描いているこの描写は須賀さんの人生なのか、ユルスナールの人生なのか、境界線がぼやけていく。遠く離れた2人の物語のはずなのに、2人の人生の線が織り込まれ、一つの大きな糸になっている。小説のような、エッセイのような、不思議な物語だった。
2人の共通点はいろいろある。女性であること。作家であること。ヨーロッパに滞在したことがあること…。
でも、この本で2人の物語をつないでいるのは、「孤独」だった。
彼女の人生にはいつも「別れ」が身近にある人生だった。
彼女の母親は彼女が生まれてからまもなく母他界。その後父親に育てられるが、その父も彼女が若いころに他界している。父からさまざまな古典文学の手ほどきを受けていた彼女は何かに没頭するように執筆活動を始める。
その後、彼女はグレースという人生のパートナーに出会い、アメリカで過ごすが、グレースも長い闘病の末にユルスナールを残し他界してしまう。
そんな彼女の人生を須賀さんは飾り気もない文章で、端的に描写していく。1つ1つの出来事を悲嘆にも、理不尽な憤りもなく、ただ静かを飲み込んでいくように、描いていた。だから、物語の中にドラマチックな展開があるわけでもなく、ただ静かな湖でボートをこいでいくように、物語は静かにゆっくりと進んでいった。
それは須賀さん自身も夫に先立たれていることもあってか、この物語にはユルスナールと須賀さん自身の「孤独」が重低音のように横たわっている。でも、その孤独がこの物語をより美しくしているような気がした。
孤独が須賀さん自身の思考をより強靭にし、かぎりなくシンプルで美しい言葉を生み出している気がする。自分で考えるという作業はすごく孤独だ。その作業が出来るのは孤独をちゃんと知って、自分の中に置いておける人が出来ることなのだと、私は思う。
私もずっと心の中に「孤独」がある。
私に周りには、家族もいるし、友人もいる。何かあった時は頼りになる人もいる。それでも、なぜかいつも「寂しい」と思う。どこか心の穴がぽっかりあいていて、ふとした時に苦しくなる。私はその痛みが苦しくて、どうにか逃れたくて、気が付いたら私は「どうしたら周りに気に入ってもらえる人になれるのか」ということばかり考えていた。周りにいつも人がいれば、私は寂しくなくなるはずだ、そう思っていた。
でも、寂しい自分に一番最初に寄り添ってあげるべきなのは、自分自身だったと今になって思う。
孤独とは自分と向き合う時間をくれる。自分が結局どうしたいのか、どうなりたいのか、じっと気持ちに耳を澄ます時間をくれる。孤独であると感じることは他人に振り回されない、自分を生きていくためには必要なものではないのか。
孤独があるからこそ、人は誰かに優しくできる。
孤独があるからこそ、人は深く考え、創造することが出来る。
そう思うと、もうしばらく「孤独」でいるのも悪くないかな、と思った。
大切なのは「選ぶ」こと
私が冒頭の文章に惹かれた理由は、自分も「卒業後の進路」という靴を探し続けていたからだと思う。
大学生活も後半に入り、就職活動をゆっくりと始めた矢先、コロナに出くわした。企業説明会も、インターンも、面談も、すべてオンラインになった。薄く、四角い画面の中で自分が将来大半の時間を費やす場所を探す。一度は向き合ってみたものの、手触り感の無さに愕然とし、夏休みに自室の天井を見ながら、「私はこのままでいいのかなあ」と何度もつぶやいていた。
とにかく手触り感がほしい。自分の将来のステップがもう少し具体的に見えてほしい。そういう想いから私は画面越しの職探しを放棄し、いろんな所を尋ねた。東北の田舎で4か月間共同生活をし、北海道にも行った。興味のある会社や組織にはすぐコンタクトをとり、自分の考えを伝えた。共感してもらったところではインターンもした。
それでも、自分が結局何がしたいのかわからなかった。これだと思ってやってみたけど、やればやるほど、自分の心に霧がかかっていく。自分の目の前がぼんやりしていき、自分で自分が分からなくなった。
自分の輪郭を失う中で、「卒業」という社会的なリミットは近づいてくる。
そんな時、インターンで訪れた小さな町でこの本に出会った。
私はずっと、ずっと、自分に合った「靴」を探し続けていた。
イメージはデパートの靴売り場。私はそこでショーケースに並んでいる様々な形の靴をぎゅーっと凝視しながら、「今の私には何が似合うのだろう」と試し履きもせず、ただただショーケースを見つめている。けど、その間に並んでいく靴はどんどん売れて、目の前からいなくなる。それでも、私はなんとか一番自分に会う靴を見つけたくて、凝視し続けていた。
たまに、選んだ靴を試し履きしてみる。でもそれはみんなが選ぶような靴ではなく、周りから「なぜそれなの?」という目線を受ける。でも私は素敵な靴だと思うから、履いて歩いてみる。でもその素敵さを伝えられなくて、一人孤独になる。
その孤独に耐えられず、気が付いたら私は「私にとっても周りにとってもいい靴」を探し続けていた。
私の買い物に付き合っている人も「いい加減どれにするの?」という言葉なき目線を投げかけてくる。その視線を受けるたびに、「その人も納得するような靴にしなきゃ」と勝手に意気込み、なんとか試し履きをしてみようとする。でも、周りの「それなの?」みたいな視線が嫌で、どんどん靴から遠ざかっていく。
自分はただ、今の自分に合った靴を探したいだけなのに。
もっと時間をかけて、探したいだけなのに。
私はいつも小さな声で、そう叫んでいた。
いろんな靴を見つめすぎて疲れ切っていた私に、この本が教えてくれた。
大事なのは「選ぶ」ことだ。とにかく自分に合ったものをはいてみる。大きさや形が合わなくても、それが今一番気に入っている靴なら、それをはいてみればいい。
歩いてみて、はじめてわかることもある。足の形以外にも歩き方や、自分の姿勢や、見え方によっても、自分にとっての「いい靴」は変わるはず。
だから、その都度自分の取っ手のいい靴を、履き替えたり、自分で作ってみたりすればいい。
大切なのは、ちゃんと選んでみること。
選ぶという行為には「手放す」という行為も一緒についてくる。選択肢を手放すことは自分の可能性を狭めてしまうのではないかと怖くなるけど、手放すことは失うことではない。本当に必要な選択肢であれば、自然とまた自分の目の前に現れるはずだ。
今の自分を信じて、手放すことを恐れずに、歩いてみればいい。
須賀さんの率直で、透明感のある文章から、私はそう背中を押してもらった気がする。
少し前にデンマークにいた。その時に出会った人が面白いことを言っていた。
私にとって本は、自分の人生の手すりになるようなきがする。自分が傾いてしまった時に、そっと元に戻してくれたり、休ませてくれる。そうやって自分の人生という路から落っこちないようにしてくれるものなんだよ。
本に新しい世界や好奇心を満たすことを求めていた私は、その言葉にピンとこなかったが、今になると分かる気がする。
この本は私の道をそっと支えてくれる手すりのような本になる。
静かに進む物語を追いながら、今さら自分は一人ではないとほっとする自分がいた。
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