幸せってなあに?

三浦崇宏さんの「言語化力」という本を読んで、「自分にとっての幸せって何だろうか」ということを考えようと思ったので書いてみる。


・自分が「充実している」と感じるとき

好きなことをするとき「充実してる」「満足している」と感じることっと多いと思う。ただ、私にとってそれは何だろうか。

一つすぐに思いつくのは「人に必要とされる時」。例えば、遊ぶ計画や旅行の計画を立てているときに「サトゥーも誘うか」みたいなことになったらうれしいし、だれかと会話していることでさえ楽しい。バイトで重要なことをするために駆り出されるのも、家族にちょっとお使いを頼まれることも私を満足させてくれる。とりあえず「誰かに必要とされること」が自分にとって大事だと思う。

なんでそう思うのだろうか。まあ正直誰だって嬉しいと思うけど...。誰かに必要とされるってそこにいていいってこと。だから、私はそこにいることを誰かに許してほしいとか?うーん、どうだろうか。単にかまちょなだけな気もするww。あとは人の役に立てたことに満足する。自分のおかげでこの人にとって良い方向に進む手伝いができたことを誇りに思える。ほかのだれかでなく、自分が必要とされることに意味があると考えてるのかな。だとしたら、不特定多数とか集団の中の一人とか、そーゆーくくりの中にいたくないってことだと思う。自分という存在を認められて、周りから認知されて、指名されたい。そう思っているんだろうね。

そういうとなんか、ちょっと生きづらそうな気がする。周りに認めてもらえないとストレスに感じる、なんでこんなに頑張ってるのにとか、どうしてこっちを見てくれないとか考えてしまう(実際考えてしまうね)。これは、私の性格のうまく扱っていかなきゃいけない部分だね。

・じゃあどうしよっか

じゃあ、どうやってうまく扱っていこうか。一つは「なにくそ負けねえぞ」と思ってより努力することかな。今回認められなかったら次はどうやったら認めてもらえるかガッツリ考えてそれに沿って努力すること、これが一つの自分の取り扱い方かな。

または、どんな時も味方してくれる仲間を作ること。これは友達とか恋人とか家族とかになるだろうね。人生のいいこと悪いことで話したいときに話せる相手がいればどうにかなると思う。そのためには、自分の周りの人を大切にしなきゃいけないな。もちろん、苦手な人もいるだろうからそーゆー人とは無理に付き合う必要はないけど。でも、周りにすることは巡り巡って自分のためになるって鬼滅の主人公が言っていた気がする。

あとは、認められなかったことでいつまでも腹を立ててないで切り替えていくことだね。そのためには、自分の趣味でもなんでも切り替えに使えるものが必要だね。今は読書とヨガにはまってるけど、あれやっているときはそれに集中できるし、いいリフレッシュにもなるね。それで、次を頑張る。

最後は、その環境から逃げることかな。すぐに逃げるのは全く意味ないと思うけど、理不尽であったり自分じゃどうしようもないと思ったら、環境を変えることもありだと思ってる。Twitterとかでも、どんなに正しいこと言っても「その考えは結局ここがダメじゃん、ハイ論破ー」みたいな輩がいるじゃん。そんな人がいる空間にずっといたって努力の無駄遣いだし。抱かり逃げることもありかな。最終手段にしたいけどね。