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透明な夜、君を迎えに 第四話

その夜、カレは何時間経っても帰ってこなかった。
あんまりだ、と思う。

わたしの両腕の傷の治りは、順調だった。
それは外科医の父親の仕事を見覚えた、カレの手当てが適切だった為だ。
だが、日常生活を送るのに、手指が使えないというのは、想像を絶する不便さだった。

幸い、左足を切り付けられた時は、わたしが意識を失い、地面に倒れ込んだ為、ナイフの刃は表面を掠ったに過ぎず、歩行には支障はなかった。
わたしにとって一番のネックとなったのは、トイレだった。
考えても見て欲しい。
花も恥じらう乙女が、オムツの中に排泄し、好きな人にそれを処理してもらう場面を。
……控え目に言って、地獄だ。

わたしはそれこそ、血の滲むような努力をして、自分で何とかトイレを済ませることができるようになった。
トイレがウォッシュレットだったのも幸運だった。
それ以外のことは、お風呂も食事も歯磨きも、すべてカレの手に任せた。
その方が、カレの愛情を感じることができたから。

でも、こんな風に置き去りにされてしまうと、缶詰を開けることもできない私は、お腹が空いても我慢する他ない。
冷蔵庫にある、ストローを刺したままのパックから牛乳を飲み、今日はもう寝てしまおう、と思ったのは、空が少しずつ青みを増してきた頃だった。

ガチャン!
物音に反射的に体がビクッ、と反応した。
工場裏手に当たるこの部屋には窓はないのだが、一枚のドアで隔てられた、洗面所の窓からの音のようだった。

どうしよう?

とりあえず立ち上がり、出入口へ向かう。
シリンダー錠のついた、簡単なドアノブだけど、わたしには回せない。

ガラス窓が開く音がし、何者かが侵入してくる気配がした。
ノブを咥えようとしたが、空しい行為だというのはやる前から分かった。
ダメだ、間に合わない。

キィ、と洗面所のドアが内側に開いた。
ゆっくり振り返る。
ドアの向こうから現れたのは、むさ苦しい風体の男だった。
汚れたカーキ色のジャンパーに、グレーのズボン、黒ずんだスニーカー。
垢じみた顔は日焼けして、髭に覆われている。
おおかた、ホームレスだろう。
その上窓を割って入ってくるんだから、立派な犯罪者だ。
こちらを見ると、驚いたような顔になった。

「なんだお前」

いや、それこっちのセリフ。

そう思ったが口には出さず、わたしは男の顔を見た。

「なにか食べ物あるか」

「そこの、棚の中」

あまり口をききたい相手ではなかったが、質問にはとりあえず答えることにした。
男は無言で棚を開けると、魚の缶詰とレトルトのごはんを取り出して開け、立ったまま手づかみで食べ始めた。
コチコチのごはんをそのまま食べるなんて、余程お腹が空いていたんだろう。
お礼も何も言わないのに若干の衝撃を受けたが、わたしはそう思って目をつむることにした。

というか、わたしがここにいるのが誰かにバレるのって、まずいんじゃないのかな。
でもホームレスなら、まず警察に密告することなんてないだろうし、そもそも本人が不法侵入という犯罪を犯してるんだし。

どうしていいのか分からず、そんなことを考えながら、わたしは彼が食べるのを見ていた。
あっという間にごはんと缶詰を平らげた彼はわたしをジロジロ見て、

「お前、カタワか」

と大声で言った。
あまり呂律が回っていない。
そしてこちらにずんずん近寄ってきて、えっ?と思う間もなく、わたしの両肩を掴んで床に押し倒し、顔をベロベロと舐めた。
ドブのような匂いがして、わたしは吐き気を催した。

え、何こいつ。
缶詰じゃ足りなくて、わたしの事も食べようとしてるの???

パニックになったわたしは、滅茶苦茶に暴れた。
足が男の下腹部に当たり、男は「グエッ!」と呻き声を出し、体を折った。

必死で体勢を立て直し、私は男から離れた。
そして無我夢中で、男が開け放したままの洗面所のドアに飛び込み、体ごとドアを閉めた
目の前の床に、ガラス片が散乱している。
洗濯機置き場が空になっているので、洗濯機で隠れる場所に作られた窓から侵入できたのだ。

男は立ち直ったようで、向こうからドアをぐいぐいと押してきた。
全体重を掛けて、それを押し返す。
頃合いを見て、さっと身を引いた。
ドアがバタン!と開き、支えを失った男が洗面所に転がり込み、そのまま前につんのめった。
わたしは男に体当たりし、頭を踏みつけた。

「ギャー!!!」

男が喚いている。
何度も、何度も男の頭を、踏みつけた。

「莉那!!」

いきなり、後ろで声がした。

「どうしたんだ。この男は?」

カレの声を聞いて、全身の力が抜けた。

「わかんない、いきなり入ってきたの」

「何かされたのか?」

「ぅ……襲われた」

やっとそれだけ口にすると、カレはわたしを押しのけ、倒れている男を見下ろした。
男は顔面を血まみれにして蠢いている。
あれだけ飢えていたのだから、もともと相当衰弱していたのだろう。

わたしが洗面所を出て、壁にもたれてぐったりしていると、カレが洗面所から出てきた。
バッグの中を探っている。

「トウヤ……?」

バッグから取り出したのは、あのナイフだ。

「莉那、見ててくれる?」

擦れた声。
あの時と同じ、カレの目。
月光のように鋭く光っている。

あ……。

だめ。
そのナイフは、わたしのもの、なのに。

心臓が激しく脈打つ。

わたしの目の前で、カレは男の髪を掴んで持ち上げると、耳の後ろにナイフを当てた。

ブシュ!

飛び散る血しぶきが、タイル張りの床と壁を赤く染めてゆく。
視界と同様、思考も赤で塗り潰されてゆく。

これで、わたしも共犯だ。

カレとの生活は、長く続くとは思っていなかった。
遅かれ早かれ、わたしはカレに殺される。
いや、わたしがカレに、自分を殺させる。

でも、両親の元に戻った自分の暮らしというものもあるかもしれない、と頭のどこかでぼんやりと考えていた。

もう、後戻りはできないんだ。
わたしに未来は、ない。

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