本は日用品だけど消耗品じゃない
三省堂神保町本店のカリスマ書店員の新井さんが、本は日用品であると何かのエッセイで書いていらっしゃり、このことばがとても心に残っている。そういえば新井さんが特集されていたセブンルールでは、読み終わった本は適当に本棚に積み上げて、溢れたら捨てるという新井さんの姿があった。
私は本を簡単に捨てることができない性格なので、そうやって割り切って入れ替えられるのは正直羨ましい(でも新井さんのエッセイやらいろいろを拝見していると、本にたいして割り切れるのは本への考え方というよりも新井さんという人の性質全体の特質なのではないかと思う・・・)。
私にとっても本は日用品だ。小さいころから最も身近で手軽で便利なもの。開くだけで楽しいもの。特に文庫本という発明は最高。数百円で長時間楽しめるから、長い距離移動する前など、書店で気軽にざっと買う。
でも私にとって、本は日用品であっても消耗品ではない。私にとっての消耗品とは、例えばネットの記事や雑誌(一部の雑誌はそうではないが)やパンフ、チラシの文章、なんとなくついているだけのTV番組、人を煽って何かを消費させるためだけの情報。読み捨てる、読み流すことのできるもの。読んだ後に何も残らなくても腹が立たないもの。
本はそうではないから、買うときは読んで何か自分に爪痕が残りそうなものを鼻をきかせて選ぶ。昔から繰り返し読んでいる小説は、もうほとんどこの作家に私の生き方を決められたんじゃないかというほど、爪痕を残されている。今もことあるごとに読み直すから、その爪痕は更新される。
私は新しく買った本はしばらくは本だなに置いておく。誰かに貸したまま返ってこなかったり、売ったりもするけれど基本的には「自分の本だなに置いておきたいもの」を選ぶ。
自分の本だなとは不思議なもので、脳みそや心の中を表しているようなものだと思う。だから私は人の本だなを見るのが好きだ。友達でも、本だなにある本を見て「あれ、意外とこういう本が好きなんだ」と思ったとき、今まで隠れていた姿を垣間見れた気がしてしまう。
逆に自分の本だなを人に見られるときは、考えていることを見透かされているように感じる。
「積ん読」という言葉は面白い。どうして人は読まない本を買うんだろう。読んでいない本が家にあることを知っていても、新しい本を買ってしまうんだろう。
本を買うと、買っただけでその本に書いてあること(正確には読んでいないので書いてあることはわからないが「書いてありそうなこと」)を自分の内側にいれたような、所有したような気持ちになるのではないかと思う。
だから中身を読んでいない本があっても、つい本を買いたくなってしまう。書いてありそうなことに憧れを感じたり、今の自分に足りない何か、求めているものがその本に詰まっている気がして、人は本を「積ん読」してしまうんじゃないかと思う。
本だなの本すべてが読まれていないとしても、そこにあるということは、その本が選ばれた理由があるんだと思う。もしかすると積読されている本こそ、その人の内面を表しているものなのかもしれない。
フランクフルトでこんなポストカードが売られていて、積ん読って日本特有の言葉なのかな?と思いました。事情がわかる方がいたらぜひ教えてください・・・。
大変悲しいことですが、過労死もありました。
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