見出し画像

優しさと社会へ適応すること

映画『万引き家族』を観てきました。
ネタバレ含め、感想です。

リリーフランキーや安藤さくら、樹木希林たちが演じる、日雇い労働や年金、そして万引きで生計を立てている人たちの、社会的にだめなところの描き方が、すごくリアルだと思った。

クリーニング工場で衣服についていたネクタイピンを罪悪感なくくすねる、カンのゴミを捨てちゃいけない日にまぁいっかと捨てる、部屋はよくわからないものでぐちゃぐちゃ、ビール発泡酒などとにかく食事のたびにお酒を飲む、カップラーメンは万引きして1個90円のコロッケは買ってでもごはんを炊いたりはしない(やりくりしようとしない)。この家族には、社会的なモラルもなければきちんとした生活をしていこうという気持ちが全くない。

もし例えば職場にこういう人がいたら、私はちょっと眉をひそめてしまうだろうと思う。

でも、そんな家族は夜遅くにベランダにひとりでいた女の子を連れてきて、愛情を注いで育てる。女の子は本当の家族からは虐待されていたけれど、寄せ集めの家族のところで安心して暮らせるようになった。

映画の終盤、女の子が警察に保護され家族も全員警察から事情聴取を受けるシーン。警察が言うことは正論だけど、映画を観ている私たちからしたら、それがどんなに一面的で、この寄せ集め家族の愛情深い面を無視しているかわかる。

でも現実の社会のどこかで、私がもしこういう寄せ集め家族のような、社会に上手に適応することができないままの人にあったら、映画のなかの警察のようにしか見れないのかもしれないと思った。

社会のシステムの中で生きていくには、遅刻しないとか、嘘をつかないとか、しかるべき申請をするとか、ルールに適応することが必要だ。
でもそういうことが苦手だったり、好きじゃない人もいる。
社会にうまく適応することと、人としての優しさ、ひとりぼっちでいた子どもに話しかけるかどうか、どちらが人間の価値になるのだろうか。

もちろんひとりぼっちの子どもを気にかけるにしても、急にさらうのではなく、然るべき機関に通報なりして、ちゃんとしたルールで助けるのが一番だけど、無関心のまま何もしないのと、連れて帰って育ててしまうの、どちらが人として正しいのか、私はわからないと思った。

社会に適応できない人だとしても、こういう優しさみたいな魅力を持つ人はいるのだから、それを切り捨てる社会は、その社会の在り方が間違っているんじゃないかと思う。

映画では、結局最後には女の子は本当の家族のもとへ戻され、そこでまたネグレクトされる。
社会の正論のもと、ひとつの変てこな寄せ集め家族が解体されて、女の子は本物の家族のところへ帰ったけれど、そのネグレクトされるという状況は変わらないことがすごく皮肉で悲しいと思った。

人を一面的にみることや、善悪二元論で考えることの恐ろしさを感じて、今の自分の常識を揺さぶられるような、素晴らしい映画でした。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?