躁鬱とはあまり関係ない話

前回の投稿より間があきましたが特に大きな異常もなく生きています。
希死念慮がすこしだけ改善され、ひどく強い衝動を伴うことが少なくなり、日々少し快適に過ごせています。毎日やっていた夕飯づくりとそれに伴う買い物を代わってもらっていることも大きいでしょう。
とはいえ少しは有るのでそのたびに眠ってごまかしていますが、眠ると他のことができないのがつらいですね。

鬱の状態を乗り越え、はや数カ月。やっといろんなことに意欲が戻ってきました。そうなると逆に今まで意欲が大分低下していたんだと思い知らされます。TRPGをやる気力がわき、カラーイラストもばんばかかけるようになってきました。1日3時間が元々精いっぱいですが。座っている間もそわそわもほとんどありません。談笑もできるくらいにはなりました。とはいえ、以前のように気力に満ち溢れていることは少ないのですが…、まあできることが1つ戻ってきただけでも十分な成果です。

さて今回は母から聞いた言葉についてお話したいと思います。母は配偶者である私の父を自殺で亡くしてしまってから心の傷を背負うこととなりました。そんななか所謂、遺族の会のようなところへ出向くようになったのです。
そこにはお寺の住職様や内科医の方も交えてお話をするそう。同じような境遇の取り残された人が体験談を話したりして支え合うそんな会です。そんなところへ通いながらなんとかピクミン4をできるようになるまで復活した母のお言葉です。

・「人に話すことでずいぶん軽くなる」
これは個人的に希死念慮や躁鬱、鬱にも該当しているんじゃないかと思います。また同じような人にアドバイスすることで一種の認知行動療法になる為、自分以外の人に話すことは非常に有益とのことです。とはいえ、自死や精神疾患に関して(希死念慮なども)は理解者が非常に少なく、しゃべる機会も常に、とは言いづらいですよね。自分の気力もあります。○○の会と呼ばれるもの…興味はありますがそこまで出向く時間と気力の確保がなかなか難しい。行ってみるまでが腰が重い。話すまでがしんどい。あると思います。

・「感情が出るのは良いサイン。我慢せずに感情を表に出しましょう」
怒り、悲しみ等、通常マイナスとも思われる感情も発生すること自体は非常にいいサインだそうです。寧ろ何も感じない、反応が薄い、楽しくもないというのは心や脳みそにブレーキがかかった状態であるのです。なので感情が発生すること自体は喜ばしい回復の兆候。そこでブレーキをかけずに思い切り怒る、思い切り泣く、思い切り笑う等できる範囲で感情を噴出させられるとなおよしだとお医者さんは仰ったそうです。とはいえ、家の中でさえ感情のまま行動してしまえば場合によっては狂人です。やりようによっては別の要因で精神科を受診させられるかもしれません。でも「泣いてもいい」「怒ってもいい」「笑えるようになった」「嬉しいって気持ちが湧いた」なんていうのは小さなことでも回復だと思って受け入れるといいのかも。なお、鬱状態は繰り返す、波があるので、また何も感じないことになっても「そんなものだ」と思っておくとダメージが少ないです。なかなか良くならないって思うの、つらいですからね。

・「読書とかゲームができない…楽しいことができない。手につかないっていっても分かってもらえないのよね」
ぽつりとでた母の言葉。これはなかなか私も身に覚えがあるのですが、鬱状態の時って趣味がうまくできないんですよね。寝るだけしかできないとか、ご飯を食べることしかできないとか。ひどい時それすらもできないとか。
でもなった人にしか多分この感覚って分からないんですね。母も私も「そわそわしてできない」という感覚は一致していましたので同意はできました。好きなことが手につかない。鬱から脱しようにもそもそも気晴らしができないのです。
無理にやろうとしても手が付かないんだからどうしようもなく、ただしんどい日々が続くのです。しんどいだけの日。他人から見れば「外に出て思い切り遊んだり、好きなことすればいいのに」って思うのは当然のことです。引きこもってるだけで楽しいこともせず、ただ時間が過ぎるのを耐えて一日過ごしている人はどう見ても不思議でしょう。でもなったからこれは私にもわかります。できねえのよ…。分かってくれとは言わないが…。

・「やっとね、生きる・死ぬって話もできるようになった」
最愛の人の自死を突然迎えた母は、「生きる・死ぬ」「殺す」等命のかかわる言葉に過敏でした。私も希死念慮を相談して何度も突っぱねられました。でも、最近はこの言葉を使えるようになったらしいです。嫌なことがあると「殺す!!」なんて冗談も言えるようになったんです。口が悪すぎんだろ。

こんな話をお盆の帰省で話をしてもらいました。ずいぶんと母も明るくなりましたが、未だに問題は山積みです。私も今現在は元気ですが、数カ月先もこれが続いているかは不明瞭です。躁鬱の気配がありますから、どうしても波がくる可能性を否定しきれません。ストレスをさけ、あまりに大きな感情の波を起こさないように、日々甘やかして生きていますが、祖父の介護と経済面の問題はいつでも実家に重くのしかかります。

私個人の話をしてしまえば、母には自分の人生を歩んでもらいたいのです。介護に忙殺され生活費ですら苦労してかき集めなければならない母は、足がうまく動かないときがあります。手術が必要なそうです。でもそのためには祖父を施設に入所させなければかないません。祖父を入所させられればパート時間を増やしてお金を稼ぐことができます。好きなこともたくさんできるようになります。旅行だって好きなだけ行けます。お金と時間が手に入るのですから。

祖父は認知症でもないので、「自宅にいたい」と、家族と過ごしたいと口にしたそうです。母がだめなら私の妹や私に介護をしてほしいそうです。難しい問題ですが、孫や義理の娘を介護のあてにして過ごせる時代はとうに終わったと私は思っています。とはいえ、家族とすごせないような施設に入ってしまえば、さみしいのは分かります。でも、それで助かることも多いんですが…。

こんなことを考えていると鬱にもどりそうになります。ので、ここで吐き出しておきます。

躁鬱とすこしばかり離れた話題になりましたが、今回は以上。


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