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雑なファシリテーションで、人を傷つけてしまった話

こんにちは、ゆーのです。

↓自己紹介

対話と場づくりの人。散策者所属。東京大学物理工学科。ワークショップ企画運営の軸に《場のゆらぎ》を据えています。関心キーワードは現象学、組織文化。最近はもっぱら、オンラインにおける対話の可能性と限界について考えています。Twitterはこちら


雑なファシリテーションをして、人を傷つけてしまった話です。

書こうか迷ったんですが、自分への戒めとして、そしてあわよくば“ファシリテーター”を名乗ることがある他の人たちに反面教師にしてもらえればと思い、筆を取ります。



無神経な言葉選び

この前、僕を含めて3人ほどの小さなグループでファシリテーションをする機会がありました。

「3人グループでファシリテーションだなんて、どんな機会だ?」

と思われる方もいるかもしれませんが、何かの集まりがあって、その全体ワーク後の雑談のようなものを想定してください。


個人が特定されてしまいかねない内容だったので、ここからはフィクションを交えます。

集まりはzoomで行われており、その時間は全体ワーク後に「さあ、雑談してください」とブレークアウトルームに放り込まれた後でした。(今から思えば、それもかなり雑なファシリテーションですね。)

急に「雑談して」と言われても静寂が訪れる、というのはよくある光景ですが、この場合も例に漏れません。3人(僕とAさんとBさん、とします)がほとんど初対面な仲だったこともあり、はじめ、誰も話し始めない時間が流れました。

こういうとき僕は、自らが軽く感想を言うか、誰かに話を振るようにしているのですが、このときの僕は後者を選びました。

Aさんがどこか考え込んでいる様子だったのでなにか話してくれるかもと期待し、「Aさん、どうでした?」と話を振ったんです。


すると、Aさんは全体ワークの内容について、

「さっきのワークでは、あまり他の人が話してくれず、自分が話すばかりだった。難しかったから仕方がないかもしれないが、ああいうワークではこうなるのだなぁ、と興味深く感じた。」

と言ったんですね。

で、僕はちょっと焦りました。

僕とAさんとBさんはさっきのワークでは同じグループではなかったので、「他の人が話してくれない」という言葉が僕たちを批判していないということはわかりますが、ちょっと胸がざわつく言葉です。

対話がネガティブな内容から始まったとき、それを全員にとって安心安全な場に戻すのはなかなかに難しいことです。僕はどうにかしなきゃと思って次の言葉を投げたのですが、これが間違いでした。

「たしかに、そうですよね。僕がさっきいたグループでも、同じようなことが起きてました。他の人が黙ってるから、話している人は1人だけで大変そうでした。」


Aさんの「期待通りではなかった」という感覚を無視するのは嫌だったので、僕はとことんAさんの言葉を深掘りすることにしました。そこで投げたのがこの言葉です。「他の人が黙ってるから」という因果関係を足すことで、Aさんのさらなる語りを引き出そうとしたんですね。


書いてて恥ずかしいんですが、ここで最悪だったのは、もう1人の人(Bさん)が、さっきのワークでまさにこの“黙ってる”人だったらしいことです。

Bさんの困ったように笑っている顔を見て「やっべ」とすぐに気づいたものの、口から出た言葉は取り戻せません。

実はAさんがあまり不満には感じていなかったということもあり、その後は幸い、3人で楽しく話をすることができました。ただ、きっと少なくとも僕があの無神経な言葉を発した瞬間、Bさんは疎外感を感じ、とても困っていただろうと思います。ファシリテーターとして良い場を作れなかったことが、申し訳なく、そしてとても悔しく思いました。

困ったように笑っているBさんのあの表情は、数週間経った今でも頭にこびりついて離れません。



“想定の想定外”、を想定するという難題

あの無神経な言葉選びは、どうすれば防げたのでしょう。

突き詰めていくと、この問題は「僕の“多様性”の想定の甘さ」に原因があると僕は思っています。

世の中にはいろんな人がいますよね。みんなそれは頭ではわかっています。だけど、「他の人が黙ってるから」と発言したとき、僕はその「他の人」がまさか隣にいるとは思っていませんでした。

たしかに、世の中にはいろんな人がいます。そして、その“いろんな人”は、世界のウラガワなんかではなく、まさに僕の“隣”にいたんですね。


僕はあの日、「今日ここにいる人たちはこういう人たちだろう」という想定を自分の狭い世界の中で勝手に作り上げ、それを押し付けてしまっていました。

想定をすることは悪いことではありません。だけど、その想定が偏見に基づいているかもしれないということ、その想定の“想定外”な人が隣にいるかもしれないということ。そういうことを心だけではなく、体に刻んでおかなければならなかったと感じています。



「アジア人は国に帰れ」

5年前、アメリカに高校留学していたとき。最初にできた3人組の友達はすごくいいやつで、毎日お昼ご飯を一緒に食べていました。

ある日、いつものように4人で昼ごはんを食べていたら、たまたまアジア人の話になったんですね。アジア系移民のニュースかなにかがきっかけだったと思うんですけど、そのとき友達の1人がこんなことを言ったんです。

「アジア人たちが、この国の労働を奪ってるんだ。アジア人は国に帰れ。」

他の2人は驚いたような表情で僕の様子を伺っていたし、その発言をした友達も「いや、お前は留学生だからさ、違うじゃん移民とは」みたいにすぐにフォローしてくれたので、悪意がないことはわかっています。

でも、たしかに一瞬だったけど、僕は内心とても怖かったです。

当時、アジア系移民が労働を奪っている、みたいな話はよくありましたし、きっと彼もその問題を深刻に捉えて親や友達とよく議論していたのだろうと思います。

でも、たぶん彼は、自分が揶揄している「アジア人」がまさか隣にいるとは思わなかったんだと思うんですよね。無意識に、いつもの調子で、仲間への話題提供のつもりで言ったんでしょう。でも、それが僕を傷つけたし、彼もかなり「やべっ」と思ったことでしょう。今どうしてるかな。



人を傷つけているとき、僕たちは無意識なのかもしれない

なんだか虚しくなりませんか、いつもの自分の言動が、無意識に大事な人を傷つけているとしたら。

僕は議論の場で、そういう傷つきや疎外を生まないために、ファシリテーションやワークショップを学んでいます。だからこそ、僕は「他の人が黙ってるから」という自分の無神経な発言が、本当に悲しく悔しかったです。


でも、これってファシリテーションに限ったことじゃないと思うんです。日々の生活で、僕の無意識の言動が人を傷つけることってたくさんあるんですよね、きっと。


実はこの文章は、↑のnoteに触発されて書きました。

ファシリテーターとしての僕の、「他の人が黙ってるから」という発言はたしかに名付けられた差別じゃない。だけど、人種差別とか女性差別とか、いろんな差別意識も、きっと同じように僕らの無意識に、もしかしたらもはや自分のアイデンティティの一部として埋め込まれている気がしていて。

“想定の想定外”を想定することや、自分の無意識を疑うことは難しいけど、でも「“想定の想定外”、があるかもしれない」とか「人を傷つけているとき、僕たちは無意識なのかもしれない」と心だけではなく体に刻んでおくことが、誰も傷つかない世界への第一歩な気がしています。



ファシリテーションの話をしていたはずが、大きな話になっちゃいました。

でも、この世の中から理不尽な傷つきがなくなるといいなぁ、と願いながらこの言葉たちをネットの海に放流します。

そして、ファシリテーターを名乗る人は、ぜひ僕を反面教師にして本当の意味での安心安全な場づくりを心がけていただければな、と思います。(謎目線)(これは僕のエゴです)



読んでくださって、ありがとうございました。


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