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本の声

「生きてる本があるらしいよ」
 小学校の休み時間。真紀が図書室で本を探していると、クラスの女子のささやき声が聞こえてきた。
「触っていないのに、本が棚から飛び出していたり、突然床に落ちたりすることがあるんだって」
「やだぁ、恐い」
 小さな笑い声とともに、二人は隣の棚へと歩いていった。
――あの二人、また何か秘密とか七不思議とか変な話してるのかな。この間は校長先生が校長室から消えた謎、なんて噂していたのに。
 そう思っていると、突然、足下で、何かがキラッと光った。何かが落ちていた。虫? 模様? そっと拾い上げ、じっと見て、ひっくり返して見た瞬間、その正体がわかった。
「ま?」
 思わず声が出てしまった。真紀の小指の爪よりも小さなそれは、「ま」というひらがなの形をしていた。何かに貼られていた文字が、はがれ落ちたみたいに。
 「ま」は黒くて、つるんと滑らかで、まるで宝石箱からこぼれ落ちた光のカケラのように、見る角度によって、金色や銀色に変化した。
 キーンコーン、カーンコーン。
 その時、授業が始まる五分前の予鈴が鳴った。図書室にいる人たちがいっせいにバタバタと動き出す。
 真紀もとっさに、持っていた「ま」をポケットに押し込むと、出口の方へ歩き出そうとした。すると、突然後ろで、何かの落ちる音が。振り向くと、これまで真紀がいた場所に、一冊の本が落ちていた。拾って棚に戻そうとしたものの、どこから落ちたのか分からない。近くの本棚には、空いている場所がなぜか見当たらないのだ。なんとなく気になった真紀は、出口ではなく、貸出受付へ急いだ。

 授業が終わって学校から帰ると、拾った「ま」と、偶然借りてきてしまった本を机の上に置いて見た。
――そういえば、これ、私の字だ。
 真紀は、自分の名前の一文字を拾ったことに気づいて、なんだか嬉しくなった。
 本は、文学全集のうちの一冊だった。表紙の色は薄く、横から見ると、紙は茶色っぽくなっていて、とても古そうだ。ばっと開こうとしたところ、
「あっ」
 糸がほつれ、挟まれていた中の紙が一枚、落ちてしまった。
「え、壊れちゃった?」
 落ちた一枚を慌てて拾うと、その紙に書かれている文章が目に入った。
「あれ?」
 漢字が多く、読めないところもあったが、何かが変だ。よく見ると、文章の途中がいくつか空いている。
「……い、した? 目に入り、したが、よくわかり、せんでした?」
 変な文章は、まるでなぞなぞ。何かが足りないようだった。空いているところに入る文字は何だろう? 
 その時、机の上が、一瞬、キラッと光ったように見えた。
「あ、わかった」
 真紀は、今読んだ文章に、ある文字を入れて読み直してみた。
「……いました。目に入りましたが、よくわかりませんでした。ほら、ちゃんと読めるようになった」
 すべて、「ま」が抜けていたのだ。
 真紀は、拾った「ま」を、親指と人差し指でそっとつまんで、試しに紙の上に置いてみた。すると「ま」は、ゆらゆら輝きながら、だんだん薄くなっていき、溶けるように、紙に吸いこまれて消えてしまった。
 と思ったら、紙には、文章の空いている場所に、真紀が読んだ通り「ま」が現れた。
 真紀はぎゅっと目を閉じ、深呼吸してから、再び目を開けた。
「何? 今の。夢、じゃない?」
 もう、どの文章にも、空いているところはなかった。

 翌日、真紀は再び図書室へ行くと、貸出受付の先生に近づき、小さな声で言った。
「昨日、まっていう字が落ちていたんです。借りた本を開いたら、まがなくて、でも拾ったまを置いたら、まが本の中に入っていって……」
 真紀は必死に説明したが、伝わるか自信がなかった。
「もしかして、これって、生きている本なんですか?」
 自分がおかしいことを言っている気がした。
 けれど先生は、笑わなかった。それどころか、
「その本、ちょっと見せてくれる?」
 と、真剣な顔で言った。
 真紀は、本を見せて
「開いたら突然、紙が勝手に落ちて」
 と、言うと、
「わかっているわ」
 先生はにっこり笑った。
「このこと、誰かに話した?」
 真紀は首を横に振った。
「じゃあ、これは秘密ね。この本を助けてくれたお礼に、いいものを見せてあげる」
 そう言うと、先生は真紀を連れて、図書室の中をぐるぐると歩き回った。机と椅子が並ぶ中をどんどん進み、背の高い本棚の角を曲がる。それから突然立ち止まると、辺りをきょろきょろ見回した。誰も見ていないことを確認すると、先生は、棚と棚の間にある白い壁を、とんとん、と叩いた。
 すると、壁が右側にすすすすすと動いたのだ。それまで扉などなかったただの壁が、突然、引き戸になっているかのように開いて、四角い穴を開けた。
 真紀は先生と一緒に、開いた所から中へと入って行った。
 中は、暗い廊下のような通路が延びていた。
 しばらくすると、廊下の先に、少しずつ明かりが見えてきた。明かりはどんどん大きくなって、やがて目の前に現れたのは……
「わぁ」
 まるで体育館のような広い部屋の真ん中に、天井まで届きそうなほど大きな砂時計がひとつ、どんと置いてあった。
 砂時計には長いハシゴがかかっていて、てっぺんには、始業式や終業式の時に見る、よく知っている顔が見えた。
「ここは、校長室なんですか?」
 真紀が小声で先生に訊くと、先生はにこっと笑った。
「違うわ。でもここは校長先生がお仕事をする場所なの」
 その時、
「おや、その児童は?」
 上から校長先生の声が響いた。
「お疲れさまです、校長。彼女は、本の声に気づいて、助けてくれたんです」
 先生が大きな声で言った。
 校長先生は、驚いたように目を見開くと、ゆっくりハシゴを降りてきた。
 真紀が説明すると、校長先生は大きな手で真紀の頭を優しくなでた。
「ありがとう」
 目を細めると、真紀を砂時計のそばまで連れていった。
「本は、どうやって生まれるか、知っていますか?」
 校長先生は、大きな砂時計の中を指さした。そこには、一冊の本が開いて置いてあった。上のガラス部分から落ちてきた砂が、下のガラスの丸底に置いてある本の上に、さらさらと落ちている。
「砂が、本になるんですか?」
 驚く真紀に、
「見ててごらん」
 と、校長先生は微笑んで言った。
 よく見ると、それは砂ではなかった。砂よりも、もっと大きい、そしてもっとたくさんの形がある、文字、だった。
 ひらがなやカタカナ、真紀の知らない漢字など、たくさんの文字が一列に並んで、上のガラスから、さらさらと落ちている。狭い狭い通路を通った文字たちは、本の上に、吸い込まれるように降りていく。
 ちょうど最後の一列が落ちてきた。しゅるしゅる、さらっと、おしまいの丸まで、きれいに本へと、見事に着地。
「はい、できあがり」
 校長先生は、下のガラスについている扉を開けて中に入ると、できあがったばかりの本を持って出てきた。
「触ってごらん。生まれたての本ですよ」
 真紀は、ドキドキしながら、校長先生の手から本を受け取った。
 本は、ほんのり温かくて、なんだかいい匂いがした。
「さあ、次の本の準備を」
 校長先生がそう言うと、先生はたくさんの袋を抱えて来た。校長先生は、袋を担ぎ、ハシゴを上っていく。
 そして砂時計の上から、袋の中身を中にバラバラと入れ始めた。
「この袋に入っている言葉たちが……喜び」
 入れ終わると、違う袋の中身を入れた。
「こっちが悲しみ、それからこっちが驚き」
 言いながら、袋の中身をどんどん入れていく。
「たくさんの気持ちの言葉が集まって、物語になるのよ」
 と、先生が手伝いながら真紀に教えてくれた。
 砂時計は、また、さらさらと砂のように文字を落としていった。何もなかった下の空間には、いつの間にか小さな小さな、本の卵のような塊ができていた。
「これであとは待つだけ。さあ次は、君が助けてくれた本を直しましょう」
 そう言うと、校長先生は、壊れた本を手に取った。
「本はもともと文字の集まりなので、ときどき文字が抜け落ちてしまう時があります。この本は古くなって壊れてしまったから、誰かに気づいてほしくて、わざと文字をひとつ落としたのかもしれませんね。本たちは静かな性格だけど、寂しがり屋なので、読んでほしくて話しかけてくることもあるんです。なので、ありがとう。本の、助けて、という声に気づいてくれて」
 そしてにっこりと笑った。
「この本、直ったら、読めますか?」
 真紀が訊くと、校長先生は大きく頷いた。
「読んでくれたら、本も喜ぶでしょう。直ったら本棚に戻しておくので、来週、また図書室へ来てください」
 真紀は、元気に返事をすると、「ありがとうございます」と言ってお辞儀した。
 それからまた先生とともに秘密の場所を後にした。歩きながら先生は、そっと教えてくれた。
「本はすべてここで生まれているの。みんなが使っている教科書も校長先生が作っているのよ」
 図書室に戻ると、先生は、人差し指を立てて、口の前で「秘密」というポーズをした。

 一週間後、真紀は図書室へ行った。受付に先生の姿はなく、秘密の壁もどこにあるのか分からなかったが、「ま」が落ちていた近くの本棚に、あの時の本を見つけた。
 本全体には厚いビニールのカバーがかけられていた。表紙をそっと開いてみる。糸もしっかりととじられていて、パラパラめくってみても「ま」が抜けているところはなかった。
「よかった」
 そう呟いた時、
「ねえねえ、知ってる? 音楽室のピアノから変な曲が聞こえるの」
 と、しゃべりながら女子たちが歩いてきた。真紀は、二人の前に立つと、
「静かに! ここは私たちじゃなくて、本たちが話す場所なんだから」
 そう笑顔でささやくと、口の前で人差し指を立てた。
「この学校の秘密だよ」

読んだ人が笑顔になれるような文章を書きたいと思います。福来る、笑う門になることを目指して。よかったら、SNSなどで拡散していただけると嬉しいです。