第十一夜

★これは、夏目漱石『夢十夜』の書き出し「こんな夢を見た。」からはじまるショートショートを募集したコンテストに応募し、鮮やかに落選した迷品。誰かスキでもしてくれたら嬉しい★

 こんな夢を見た。
「夜桜見物しませんか」という風流な誘いに乗って庭へ出た。そのまま並んで縁側に腰を下ろす。桜など植えていたかと訝しんだものの、彼が指さす先には、成程、確かに桜が宵闇に浮かんでいる。隣の家の木であった。
「数本の枝だけですが、ぼくらに見て欲しくて、こちらの庭へ顔を覗かせているのでしょう」
 物は言いようだと思いながらも、黙って花見を楽しむことにした。
 見上げた花の向こうには黄金色の月が出ている。雲もなく、月明かりで見る桜は、静かな絵画のようだった。
「今夜は月が綺麗ですね」
 本当に、と頷きかけたところで、彼は意を決したように言葉を続けた。
「ぼくは子供の頃から無鉄砲で損ばかりしていました。それが今は、こんなに穏やかに花鳥風月を愛でられるようになった。大人になったということでしょうね」
 そう言うと、いつの間に用意していたのか、小さな杯で手酌すると、こちらにも杯を差し出した。
 ありがとう、と受け取ろうとした瞬間、
「あ、君は飲めませんでしたね、すみません」
 と言われて、杯は縁側に置かれてしまった。
 そう聞いて、自分は酒が飲めなかったのか、と思い出す。しかしこんなに気持ちのよい夜ならば、なんだか飲めるような気がした。思い切って、少しだけなら、と手を伸ばす。
「そういえば君、下宿先のお嬢さんのことを、どう思っていますか」
 あっ……その話は……ん? 口を開こうとしたら、舌がひりひりする。喉が、焼けるように熱い。たった一口、舐めるほどしか口にしていないのに、この有様か。これ程まずいものを、この男はよく平気で飲めるものだ。
「しかし君、恋は罪悪ですよ」
 こちらの様子にはお構いなしに、彼は遠くを見つめながら泰然と言葉を紡ぎ続ける。その横で自分は、曖昧に頷きながらも、だんだん頭がぼんやりとしてきた。しばらくして彼は、突然はっとしたように、
「だ、大丈夫ですか。無理に飲ませてしまってすみません。今、水を持ってきます」
 そう言って立ち上がると、部屋の奥へと駆けて行った。その背中がぐにゃりと歪む。ああ、やはり慣れないものなど口にしてはいけなかった。すべては夜桜と、澄んだ月のせいに違いない。
 ふらつく頭で顔を上げると、庭の隅にある水甕が目に入った。彼はまだ戻らない。仕方ない。ちょっとそこまで行ってこよう。縁側から庭に出て、よたよた歩く。これを覚束ない足取りというのだろうか。自分の足ではない、妙な心地さえする。
 ようやくたどり着いた水甕は、想像していたよりも大きかった。半ば見上げるように仰ぎ見る。それでも生来の身のこなしでなんとか縁に辿り着いて、甕の中を覗き込んだ。水はある。しかし、水面に突如として浮かんだのは、獣のごとき異形の顔。あっと声を上げる間もなく、足を踏み外した――時には遅かった。気づけば冷たい水に足を取られ手を取られ、何やら分からぬ長いものまで身体に巻き付いてくる始末。息ができない。ばたばたと、もがけばもがくほど深みに沈んでゆくようだ。ああ、月だ。水の向こうに月が見える。明るい。眩しいくらいに清らかな光だ。あの光は、すべての真実を明るみに出そうとするものに相違ない。人間というものの弱さも悪さも美しさも……そうか、思い出した。吾輩は、猫であった。

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