【小説】傘と共に去りぬ 第6話 無彩色の影【毎月20日更新】
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ゴミ捨て場を寝床にしていた男を見下ろす。普段ならこんな奴、視界にも入れたくないから素通りしていくはずなのに、俺の目に入ったそれは見過ごせない物だった。
「おい、起きろ。おいってば」
俺の声に反応したのかうっすらと目を開けた。男は瞬きを数回すると、自分の状況に気がついたのか勢いよく飛び上がった。辺りを見渡した後、手元に握られているビニール傘を見つめている。
「なんだってんだ、一体」
俺だってそう思っていた事を男は呟きながらズボンに付いている生ゴミを手で払い落としている。こちらには全然気が付いていない様だった。
「なぁ、アンタ」
声に気がついて顔を見上げた男はポカンとして間抜けな表情で俺の事を眺めている。
「起こしてくれたのか。ありがとう」
なんて呑気に呟くのが腹立つ。男は立ち上がってその場を立ち去ろうとした。俺は咄嗟に腕を掴んだ。多分風呂に入ってない男の腕は汗か皮脂かでベタついている。
「なんで……」
なんでこれをこんな奴が持っているんだ。これは俺があいつにあげたはずなのに。
「アンタ、その傘、どこで拾った?」
俺の問いかけに男は半口を開けながら首を傾けている。その態度が死ぬほど腹立つけれど、堪えてぎゅっと拳を握り込んだ。
7月/柳颯汰
「ここ? アンタの家」
男は頷きながらも躊躇いつつ家の鍵を開けた。遠慮がちに空いた小さな隙間に、無理やり腕を突っ込んで勢いよくドアを開けた。
のそのそと玄関で靴を脱ぐ男を横目にドアを閉めて鍵をかけた。男の靴以外何もないそこに俺は靴を揃えて脱いだ。壁の靴箱に立てかけられたビニール傘は見違えるほど薄汚れ、骨も少し折れているのか上手くまとまらずに一本変な方向に飛び出している。俺の知ってる物とは違うけど、チャームだけは変わらずについたままだ。
「おじゃましまーす」
一応挨拶はしておかなければいけない。大事なことだ。死んだじいちゃんも礼儀正しく生きろって言ってた気がする。
男は部屋の床に散らばるゴミを適当に集めて隅の方へと追いやってスペースを作っていた。机の上も飲み終わったビールの缶や片付けられていない弁当のゴミで机の色さえわからない。それらも雑に追いやると一人座れるくらいの空きに俺を促した。
「こんな部屋だけど……座って」
「わざわざどーも」
「急だったから全然掃除とかできてないけど。あ、お茶とか用意しなきゃか」
「そういうのいいよ。アンタ先に風呂入ってきたら? だいぶ匂うよ」
俺の言葉に「やっぱり?」と苦笑いをしている。それでも渋っているのか行こうともしない。それもそうだろう。俺という客人がいるのに風呂に入るのはどうなんだ、と普通は考えるだろうから。
「俺が勝手に押しかけただけだから。気にせず行ってきて。というか行ってくれたほうがいい。その方が落ち着いて話しやすいし」
「そう? それなら、失礼して」
「お構いなく、ごゆっくりー」
男は風呂場に消えていった。遠くでドアを隔てた向こうからはシャワーの音が微かに聞こえてくる。後五分、十分くらいは暇になるだろう。なんとなく手持ち無沙汰な俺は部屋をぐるりと見渡してみた。部屋の隅には先ほどのゴミ、床には干したまま投げ捨てられた服、時々雑誌。ベッドの上は人の形を残したままの掛け布団に、脱ぎ散らかした寝巻き用のジャージが横たわっている。
あんまりジロジロ見ない方がいいかと、壁に沿って並ぶ小さな棚に目を向けた。そこにはびっしりと何かの雑誌やDVDが並んでいる。少し気になって手に取ってみた。雑誌は殆どが何かの専門誌で、DVDは映画だ。邦画や洋画と俺の知らない様々な種類がある。
ふと下段に並ぶ大きめの本たちが目に留まった。背表紙には何も書いてないただの本。なのに妙にボロボロで気になった。一冊だけそっと抜き取ってみると、表紙には何も書いていない真っ白な、でも何度も何度も読み返したのか色褪せて霞んだ白色だった。本の端もべろべろによれてしまっている。
人の物だと思っているけれど、こんなの礼儀正しい事とは到底言えないけれど、俺は好奇心に負けた。じいちゃんに謝りながら本を開いた。
そこには何もなかった。本当に何もなかった。ただ真っ白なページがいくつもいくつも続いているだけだった。
「え、なにこれ」
俺は他の本も取り出してパラパラとページをめくっていく。しかし、結果は一緒。どれも全て真っ白だった。でも、所々にメモのような一言二言が書かれていたり、丸をして矢印を引っ張った強調した書き方もされていた。何もない場所に丸をして強調する。謎だった。
「待たせてごめんね。遅くなっちゃった」
ドアの開く音で我に返った俺は咄嗟に見ていた本を隠した。隠せているのかどうかわからないが、特に気にした様子はなさそうだった。
「えっと、とりあえず名前聞いてもいいかな?」
「柳颯汰。アンタは?」
「芥見楽太郎。楽太郎でいいよ」
「らくたろーサンね。それで、どうしてあの傘持ってたの?」
俺の質問に楽太郎は首を捻っている。まるでなにもわからないかのように。
「それがよく覚えていなくて。あんな傘持ってないのに」
「どっかで拾った?」
「いや、拾ったのか? なんで持ってたんだ?」
こっちが質問をしているのになんで向こうが疑問で返してきているのか。俺は少しイライラした。知りたいのはこっちだってのに。
「らくたろーサン仕事はなにしてんの?」
「仕事は、アルバイト、かな」
なんとなく話題を変えてみたけれど、どうやらフリーターをしているよう。専門的な雑誌ばかりの部屋なのに意外だと思った。
「あの傘、ほんとに知らねーの?」
「ごめん……知らない。何も覚えてないんだ。そもそも朝あんなところで寝ていたことさえわからないんだ。酒なんて飲んでないはずなんだけど」
「寝ぼけて取ってきたとかは?」
「多分それもない。夜から朝にかけての記憶になんだか靄がかかっているみたいで」
楽太郎は立ち上がり、流しに向かうとコップに水を注いで勢いよく飲み干した。空のコップを見つめる彼の瞳はどこか朧げに揺れている。
俺は隠した本に目を向けた。1番上に重ねられたのをもう一度パラパラとめくっていくと、あるページで手を止めてしまった。大きめに書かれた『傘』という単語が無意識に反応してしまったようだ。
「おい。知らないって嘘じゃねーの?」
「何度も言うけど本当に知らないんだ」
「じゃあこれはなんだよ! アンタの字だろ!」
未だに虚空の詰まったコップを見つめている楽太郎に俺はズンズン近づいていき、ぼうっとしている眼に嫌でも入るよう目の前にそのページを突き付けた。
「『傘を見つけてくる……? 必ず川で』ってこれは」
「アンタの部屋の棚で見つけた。勝手に見てごめんなさいとは思っている」
「これは、なんだ? なんか大事なことを忘れている、のか?」
楽太郎の顔がジワジワと青ざめていく。考え込んでいくにつれてブツブツと独り言が増え、重みに身体が耐えられなくなっているのかついにしゃがみ込んでしまった。
「だいじょーぶかよ?」
その問いかけに答えたのは楽太郎の声ではなかった。
「せっかく味わえた自棄だというのに」
顔を上げると楽太郎の背後にそれは立っていた。黒っぽいような灰色のような、でもそこには存在するはずない影がズンと佇んでいた。
「な、なんだ、これ」
(つづく)
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