見出し画像

トラウマがあっても「今」を生きよう

カウンセリング30回目。今回は心理検査などを間に挟んだので、1ヶ月以上空いた。

最近はわりと心の調子が良かったから、1ヶ月以上カウンセリングから遠ざかっても大丈夫だろうと思っていたけど、甘かった。めちゃめちゃしんどかった。

久しぶりに抜毛症の症状が苦しくて、夜中に2時間くらい髪を抜き続けたり、廊下やトイレでボーっと脱力しながら座ってたりと心が辛かった。

そういう時、心は小さな私や空虚な気持ちを抱える空のモードになる。自分に対して優しい言葉をかけたいのに、最近みたいに自然に優しい言葉が出てこなくて苦しかった。

何かしたいと思っても「それをしてどうなる?どうせ、人生はいつか終わるのに」と自分の行動を問いただす声がうるさい。何か欲しいと思っても、お金を使うと罪悪感がこみ上げてくる。貯金は毎月できてるのに、「もっとしないと」という強迫観念みたいなものが苦しい。

おまけに、夜中になると今まで忘れていた幼かった頃の悲しくて寂しい記憶を急に思い出すようになった。その時の空気感、景色、虚しさ、感情をリアルに思い出すから過去から抜け出せなくなる。

今回のカウンセリング時は、ちょっと素直になれた気がした。こうしなきゃ、こう言わなきゃっていう自分への縛りが少し緩んでた。「何を言ってもいい」という気持ちがいつもよりも強かった。

見えた光景は苦しかった。過去の記憶なのに、当時の父親に言いたかったことをカウンセラーから問われると、動悸がして呼吸が苦しくなる。口は開いて、言いたい言葉は出てくるのに、それが音にならない。

目の前に父親は実際にいない。そう分かっているのに、言いたい言葉がなかなか声にならない。怖くて。地獄の中で生きてきた証拠と代償だと思った。

カウンセリング後、少し心は軽くなった。でも、まだいつもみたいに完全には上がれなかった。その日の夜中から体調不良。また、体にこもった熱が苦しくて睡眠不足。

それでも彼と行ったバスケの試合が楽しかった。最近買った複雑性PTSDの書籍に書かれてた言葉に心が納得した。トラウマは全部なくさなくてもいい。トラウマがあってもなくても、今を楽しむことが大事なのだという精神科医の言葉。

全部のトラウマとちゃんと向き合って、全部真面目に解決していけないといけないと思ってた。何にどう過去の私が傷ついたのかを細部まで知って、今や未来を生きていくのが治療として正しいのだろうと思ってた。

だから、トラウマは全部なくさなくてもいいという言葉で肩の力が抜けた。そうか、ひとつひとつ丁寧に全部と向き合わなくてもいいのかもしれない。って。

痛すぎる傷への治療は大事だけど、それをしすぎて過去に飲み込まれたら結局、今を生きてない。

私は今を生きているようで、過去を生きていた気がする。いつも頭の中に過去の記憶があって、それを追体験してる感じだった。でも、私が生きているのは、今だ。

今あるものを、頭に思い描いて数えてみる。穏やかで怒号など飛ばない家。初めて信頼できる家族になれるかもしれない人との生活。お金がもらえて自立ができる仕事。親との間に作った壁。無力ではない自分。ひとりでも生きていける私。1日1回は必ず笑える日常。

ちゃんと目を凝らして見てみると、「今」はそんなに悪いものじゃない。そこに侵食してくる過去が辛いだけ。ようやく、その事実に心が納得した気がする。


空のモードになる空虚な自分には、ずっと日が当たる温かい場所にいてほしかった。でも、それって結構、残酷なことなのかも。ずっと明るく、穏やかでいてほしいなんて、誰にもできないことだから。

落ち込む日があってもいい。廊下にもたれかかって髪を抜く日があってもいい。そういう日は頭の中で空の隣に座って、お茶を一緒の飲むイメージでいよう。「こういう気持ちになる時だってあるよね」と話せばいい。

そう思ったら、心は結構楽になった。明るくても暗くてもいい。日向でも真っ暗な部屋でもいい。そこが落ち着くのなら、どんな場所でもいい。


カウンセリング後、地元の駅の駐車場に着いた時、肌の記憶がよみがえった。なぜこの季節、苦しくなりやすいのか。それは、親に殴られた時期だからだった。

真っ暗な駐車場を歩きながら風を感じた瞬間、思い出した。駐車場で頬を殴られた時のあの秋の風。目の前の絶望的な光景みたいに冷たかった風。心まで冷える気がしたんだよな、あの日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?