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多様性観点から使いたくない表現

言葉を扱う仕事をするなかで、特に気をつけていることがある。それは差別や偏見を広げないこと、そして誰かを傷つける言葉を使わないこと。私は自分がマイノリティであることから、「普通だったら気にしないでしょ」と言われることにも敏感なほうだ。今回は、そんな私が普段避けている表現のなかから2つ紹介したいと思う。

「〇〇人としての誇り」

私が一番理解できないことのひとつに、「生まれついたものを誇る」という行為がある。ただ巷には「日本人として誇らしい」「京都人の誇り」など私の目からするとギョッとしてしまう表現が散見される。

何がおかしいの?と思う人には「日本人」を「白人」に変えて考えてみてほしい。白人至上主義の匂いが漂うのではないだろうか。肌の色は生まれついての属性である。自分がこの世に生まれたことについては自分の実力や選択の範囲外であり、誇るべきものなど何もないはずだ。それと同じで、自分が選んだわけでもない生まれついてのエスニシティはそもそも誇るものではない。

たとえば、京都の伝統を守っている人たちが、その伝統を守ってきたという行為を誇るのはとても納得できることだ。しかし自分は何もせず、ただ京都に生まれたからと言って「歴史的な文化や伝統は京都人の誇り」などというのはあまりにも浅ましい。そんな様子を形容するのにぴったりなのは「誇り」ではなく「驕り」だろう(ちなみに私は京都出身である)。

「日本に生まれて良かった」という表現も同様だ。自分の選択の結果として(日本で出生後、ずっと日本に住み続けるというのもひとつの選択だ)、「日本に住んでいて良かった」というのは筋が通る。しかし、「日本に生まれた」こと自体は特に何も良いことではないうえ、出自に基づく差別を想起させる。

ちなみにマイノリティプライドという言葉もあるが、それは「差別や偏見のなかでも周りに迎合することなく、あるがままの自分で居続ける」という主義や行為を誇るものであり、ただマイノリティグループに属すことを誇るものではない。

ジェンダーへの不必要な言及

ジェンダーなどまったく関係のない文脈で「女性」と書かれていることがよくある。ちなみに同じ文脈で「男性」とわざわざ書かれていることはほぼない。これは、まだまだこの社会の当たり前が「男性基準」であることを表している。

以前、私はサンフランシスコで働くベンチャーキャピタリストの女性にインタビューして記事を書いたことがあるが、タイトルや本文で「女性」という言葉は使わなかった。その記事のテーマは「日本の働き方改革へ、西海岸で働くプロフェッショナルからの助言」で内容はジェンダーに関係なく普遍的なものであったし、わざわざ「女性」と言う必要がなかったためだ。もちろん記事内に入れた顔写真・名前から「女性かもしれない」という情報は伝わるものの、その人のジェンダーは記事の内容にはまったく関係ないのでわざわざ伝える必要がない。

もう1つ、ジェンダーに軽く言及すべきでないのは、その人の性自認がわからないからだ。見た目や名前で「女性」「男性」と決めつける時代はもう終わっている。

また、ジェンダーに言及することで要らぬアンコンシャスバイアスを拡散してしまう場合もある。たとえば先日、あるビジネス誌の公式ツイートにこんなものがあった。

優秀なのに上がれない残念な女性の特徴。①問題解決より正論が先に来る。②マイクロマネジメント。細かいことばかり気にして全体が見えない。③みんなに愛されたくて嫌われる勇気が持てない ④現場原理主義。部署間の調停やマネジメントより現場の作業優先

この雑誌は女性向けなのでわざわざ「女性」とつけたのかもしれないが、書いている中身は女性特有の話ではない。ここで「女性」とわざわざつけることで、まるでこれらが女性特有の問題であるかのような誤解を与えてしまう。

また、ビジネスの文脈において「女性の視点」というよくわからない言葉もある。この場合の「女性」というのはたいていステレオタイプな女性像である。「女性の方が協調性がある」とか「女性の方が細かいことに気がつく」などといった類のものだ。たとえば男性が10人いる会議に新しいメンバーとして1人の男性と1人の女性が加わった場合、新しい男性メンバーは「その人の視点」が期待されるのに対し、新しい女性メンバーには「女性の視点」が期待されることも多い。個である前に女性として見られてしまうこの現象からは、やはり男性中心主義が香り立つ。

葉の責任

今回取り上げた2つの表現は本当によく目にする。実際、ライターとしてインタビューする相手からこうした表現が出てくることもあるが、私はそれらの言葉をそのまま使うことはしない。なぜなら、世の中に言葉を出す責任があるからだ。

メディアを通して発信する言葉は人の意識を形作る。だから、人に嫌な思いをさせたり、不平等を当たり前だとして発信したり、生まれつきのもので特権意識を助長するような表現を発信したりしてはならないと思っている。たとえ今「誰もそこまで気にしない」状況だったとしても、誰かを傷つける可能性のある言葉を発信しないことが未来の社会を変えるのだと私は信じているからだ。

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