見出し画像

【短編】金剛石の花嫁【全7話】

あらすじ:サンドルク領主のひとり娘セシリアと、娘婿ジェロームの婚礼は盛大に始まった。
庭師の男に襲われかけたセシリアとの結婚を承諾し、晴れてサンドルク領主のリエーヴル一族に迎えられたジェロームは、義父とともに領地経営に精を出す。
しかし、セシリアから金剛石(ダイヤモンド)のついたロケットをもらったその日から、奇妙な夢を見るようになり……。


第1話

 婚礼の儀はつつがなく始まろうとしていた。
 ほとんどの婚姻がそうであるように、人々は平穏と祝福の内にあった。太陽は優しく地を照らし、一点の曇りもなかった。サンドルク男爵領主の美しい娘、セシリア・リエーヴルはきょうこの日、素晴らしい男の妻となる。かれらの領地であり、サンドルク領主館の建つ素朴な村を突っ切り、教会に向けて先頭の馬車が出発するのを子供たちはいまかいまかと待っていた。贅を尽くした花嫁衣装をひとめ見ようと、村の女の子たちは首を長くして待ち望んでいた。男の子でさえ、今日ばかりは虫や川魚に夢中になるのをやめた。たとえ領民に配られる甘い菓子が目当てだったとしても、祝いの席の末端であることには違いない。
 レンガ造りの豪奢な館を囲むように、人々は花嫁が出てくるのを待った。窓の向こう側で微かに人影が映るたびに、人々の目線が行き来した。その瞬間を待ち望んでいた。だがそんな村の大人たちの顔には、どことなく作り物めいた笑顔が貼り付いていた。言い様のないぎこちなさは、どこからともなく明るい雰囲気の中に密やかに忍び寄ってきた。村の大人たちは拭いきれぬ影の存在を感じるような不安を抱えていた。それでいて、落ち着かないのを自分からあえて無視しなければならないような、そんなぎこちなさだった。
 やがて時間になると、使用人の手によって領主館の扉が開かれた。メイドたちが恭しく、夫婦となる二人を外へと送り出す。暗闇から、まず新郎が姿を現した。この日のためにしつらえられたスーツに腕を通し、金色の柔らかな髪に、高い鼻先と整った顔立ちの青い眼の男だった。がっしりとした体躯で、若々しい力を漲らせている。彼の姿そのものが領主館に張り詰めた闇を引き裂くようだった。たちまち、ぎこちなさは霧散していった。彼が恭しく手を差し伸べると、いよいよセシリア・リセーヴルが姿を現した。どよめきと歓声とが同時に沸き起こった。真っ白なヴェールに包まれたその表情は美しく、なによりも凜とした表情の中に可憐さを持ち合わせていた。彼女のために作られた花嫁衣装は抜けるような白で、ふんだんにレースをあしらい、きらきらときらめいていた。そのひとつひとつのどれもが至高であった。村の子供たちは手を叩いて喜んだ。贅を尽くした花嫁衣装は少女たちの心にきらびやかな宝石を残していく。
 歓声のなかで、二人は三台目の馬車に乗り込んだ。
 そうして先頭の馬車が出発すると、男の子たちの何人かが馬を見ようと一緒に歩き出す。賑やかな婚礼がいまにも始まろうとしていた。

 ジェローム・パストゥールはサンドルク領から少し離れたアルメ男爵領主の次男だった。アルメ領はサンドルクと同じく街から離れた田舎にあったものの、都との繋がりを持っていた。小さいながらも羊毛や酒といった特産品を都へ送り出し、裕福な暮らしをしていた。村の人々との関係も良くも悪くもなく、田舎ののどかで緩やかな暮らしをしていた。ジェロームは毎日のように馬で領地を走り回り、武芸に長けた男で、評判も申し分なかった。領土にある森で鹿撃ちをするのが趣味で、ときおり仕留めた鹿を村に持っていったので、領民たちからもそこそこ好評だったのである。リエーヴルも似たような環境で交流もあったため、縁談の話が来た時もそれほど驚くべきことではなかった。
 現サンドルク領主であるハロムには一人娘のセシリアしかいなかったため、こうなることは予測されていた。養子という形になることに、ジェロームはそれほど抵抗感を持たなかった。アルメ領を継ぐのは兄であると決まっていたし、彼自身もそれに異論はなかったからである。異を唱えるような腰巾着もいなかった。
 セシリアと引き合わされた彼は、その美貌を見てすぐに気に入った。
「彼女はどうだったかね」
「申し分ありません。彼女と結婚します」
 ジェロームが答えると、父は笑顔を見せた。そういうわけで婚約はすぐに決まった。
「やあ、おめでとうジェローム」
 兄もまたこの結婚を喜んで肩を組んだ。
 むしろサンドルク領との繋がりが出来ることで、いずれ領地を取り込めるのではないかという算段も多少はあっただろう。だがいまだけは彼らの結婚を純粋に祝福していた。事態はすぐに動き出した。リエーヴルも早いほうが良いと思ったのだろう。親族の顔合わせが行われ、あっという間に結婚式の日取りが決まり、握手が交わされた。
 しかし、母だけは少し懸念することがあったようだった。
「あのお嬢さんのことだけれど――」
「何か問題が?」
 母が気にしていることは理解していた。
 都で流れている噂のひとつに、セシリアの噂があったのだ。
 ハロムによれば、なんでも庭師の男に襲われそうになったところを助けられたという。サンドルクでは村の住人が何人か使用人として召し抱えられ、調理場や庭などで働いていた。下手人はそのひとりだった。あろうことか村の住人がセシリアに横恋慕した挙げ句に、森で彼女に襲いかかったというのだ。
 下手人はあわやというところで捕まり、そのままハロムによって斬首にされたという。
 よくあることだった。
 法の手に委ねなかったのはあまり良い風潮ではないものの、彼女が一人娘であることを鑑みれば当たり前のことだろう。相手も貴族ではないし、ハロムの怒りはもっともだ。死体はそのまま森に捨てられ、野ざらしにされたという。
 しかしそんな事件は田舎だからこそ大きく扱われるものだ。自身も都と繋がりを持っているジェロームは、醜聞のひとつやふたつ、都ではありふれたものだと知っていた。それどころかもっと醜悪な事件さえ都では起きている。それに口さがない人々によって、もう生娘ではないとか、子供を妊娠しているなどという尾ひれがついて回っていることもある。
「母上が気にしているのは、彼女が生娘でないかもしれぬということでしょう」
「ええ、そうなのだけれど……、なにかもっと……」
 母は心の内にあるものをうまく言葉にできぬようだった。
 ジェロームは、母がセシリアを見て自分には関知できぬ何かを感じ取ったのではないかと思った。しかしそんなものは些細なものだ。女の勘がどうあっても理論には勝てまい。
「可哀想な娘です。しかし下手人はもう斬首になったといいますし、例え村人に不届き者がいたとして、しばらくはわたしが見張っているから、手出しをしてはこないでしょう。きっと大丈夫ですよ」
 彼は自信を持って言い切った。


第2話

 あれよあれよという間に婚礼の日はやってきて、ジェロームは晴れてセシリアと夫婦になった。ハロムも疲労の色を浮かべていたものの、彼を快く家族の一員として受け入れ、実の息子であるかのように扱った。今夜ばかりは無礼講とばかりに使用人たちも裏手で祝杯をあげている。村からも明るい光が漏れていて、領主の婚礼を理由に男たちが酒盛りを続けているのがよくわかった。
 ジェロームがセシリアを伴って寝室に引っ込んでからも、深夜まで宴は続いたようだった。
 寝室で、母が心配していたことが杞憂であるともわかった。セシリアは少なくともジェロームを受け入れてくれたし、初夜も滞りなく済んだ。ジェロームは母の杞憂などすっかり忘れ去っていた。
 こうして新たな生活が始まった。
 ハロムは、まずはこの地での領主としての仕事を覚えるようにとジェロームを補佐につけた。領地が違えば領地経営の仕方も多少は違うものである。いずれアルメ領流にするのはハロムが引退したあとでも構わないだろう。
 最初のうち、ジェロームはハロムとともに忙しく働いた。ハロムに連れられて領地のあちこちを視察することもあれば、いま抱えている問題を一緒に考えることもあった。
「セシリアをよろしく頼むよ……本当に」
 ハロムはときおり疲れた顔でそう言うことがあった。彼の心労はいまだ続いているのかと、ジェロームは心を痛めた。
 とはいえ村ではセシリアに関する噂もあったものの、ジェロームという夫が現れたからか表向きにはぴたりとやんだ。きっとハロムはそれもあって婚礼を急いだのだろうと思った。実際、十八歳の若い妻はジェロームをきちんと夫として接してくれたし、これといった不審点はなかった。まだ新婚とはいえ、彼女なりによく尽くしてくれたし、彼もまたそんな彼女を大切に扱った。たとえ心の傷になっていたとしても、セシリアを愛そうと思ったのだ。

 それからしばらく経った頃、ジェロームは暇ができると、使用人の一人のもとへと赴いた。彼は館のそばにある炭小屋で働いており、館で使う炭や薪を専門に作っていた。
「やあ、ジズ」
 ジェロームが声をかけると、炭で服を汚した小男が顔をあげた。作業をとめて頭を下げる。繋がれていた犬が立ち上がったが、ジズが手で制すと動きをとめた。
「これは、ジェローム様。どのようなご用件で?」
「お前に聞けば森のことは良く知っていると教えてもらってな」
「森ですかい?」
 ジズはわずかに眉を顰めた。
「ああ。義親父殿はあまり鹿撃ちには興味が無さそうでね」
 ジェロームは声をかけながら、尻尾を揺らす犬を見てしゃがみこんだ。狩猟犬のようだった。犬はよく躾けられているようで、ジェロームを見てハッハッと舌を出した。軽く首元を撫でてやる。
「ははあ。確かに、そうですな。ハロム様はあまり好まれませんな」
「お前はどうだい」
「そうですな。最近は……ええ、まあ。いろいろと忙しかったですからな」
「ふうん。まあお前たちも働き詰めだっただろうからな。それで、森のことだが――」
 ジェロームが犬から手を離して立ち上がると、ジズは小さく頷いた。
「ええ。確かにこの森は鹿撃ちにもいいでしょう。ただ、西のほうはあまり近づかん方がいいです。偏屈な婆さんが一人住んでいましてね。近づくとうるさいんですよ」
「ふうん。婆さんか。気にすることはないと思うがね」
「そういえば、魔女という噂もあるんですよ」
 小男がわざとらしく声を潜めたので、ジェロームはますます笑うしかなかった。
「はははっ! 魔女か。時代が時代ならとっくに首を切られているだろうな」
「まあ、ただの婆さんですがね。ハロム様は、年も年だし、村人とはあまり騒ぎを起こしたくないと」
「ふむ?」
「……それと……そのう――」
 ジズは自分の服に何度も手をこすりつけていた。
「もしかして、妻を襲ったという庭師の話か」
「ええ、まあ」
 観念したように頷く。
「そういえば、死体を森に捨てたという話を聞いたな。しかしそいつはもう死んでいるのでしょう?」
「ええ、そうです。首と一緒に、何人かで運んでいったのを案内しましたからな……。アタシはあまりに恐ろしくて、捨てるところを見ちゃいませんが。それでも憂鬱そうな顔をしてました」
「だが、確かに死んでいたんだろう?」
「ええ、そうでしょうな。ただ……」
 ジズは変わらず服に手をこすりつけていた。
「一週間ほどして――死体を確認しに行ったやつらがいましてね。そいつらが、服を除いて中身が無かったと言ったんです。ええ、骨すら無かったと。服もわずかに残るばかりだったと。魔女が持っていったなんていう奴もいますがね、ありゃあ十中八九、獣に持って行かれたんでしょう。人の味を覚えた獣はこちらを襲ってきやすいですからな。注意はした方がええです」
「ふうむ、そうか。お前の言うことも一理あるな」
 ジェロームはジズに「鹿撃ちに同行することを考えておいてくれ」とだけ述べた。ただの使用人である彼は、わかりやした、とだけ返事をして仕事に戻った。

 ハロムもきっと森に興味が無いからこそ、森に死体を捨てるなどという事をしたのだろう。
 それにしても埋めたりもせずにそのまま置いてくるとは。それだけハロムの怒りが凄まじかったということか。
 しかし現状、ジェロームが見ているハロムはすっかり肩を落として、青ざめ、どことなく不安がっているように思えた。婚約前であればまだ理解できる。自分の一人娘がどこの馬の骨とも知らぬものに、純血を散らされたかもしれぬのだ。しかしジェロームがその可能性ごと受け止め、結婚も済み、新たな生活が始まったいまとなって、なにを気に病む必要があろうか。
 むしろそういう意味では、セシリアの方がまだ一本芯が通ったようにしっかりしている。彼女は既に母親からその立場を譲り受けたかのように、使用人たちにきっちりと指示を出して館の事をこなしている。ジェロームが帰ってこればいちばんに出迎え、笑顔を向ける。そこに打算は無いような気がした。


第3話

 三ヶ月ほどが過ぎた。この頃になるとハロムに指先の痺れが出るようになったので、自室で療養することが多かった。既にジェロームに領地経営のノウハウをほとんど渡していたため、実質、彼が領地を取り仕切るようになっていた。義母マリアもハロムの容態を見るために、家の中の仕事はセシリアが継ぐ形になっていた。自分の両親の具合が悪いにもかかわらず、セシリアは気丈にもしっかりと館の中のことをこなしてジェロームを支えていた。
 そんなセシリアがときおり、ジェロームを誘うことがあった。彼女は花々の咲く庭を愛しており、彼女のためにいつも庭は綺麗に整備されていた。ジェロームはあまり作られた自然に興味は無かったが、セシリアが誘うので庭に出ることもあった。彼女は庭のことになると饒舌になり、楽しげに語るのだった。
「春になれば色とりどりの花が咲くようにしてあります。時期によって植え替えを行うように言ってありますから、まったく違う顔を見るのですよ」
 庭には彼女のための隠れたガゼボまであった。そこでこっそりと菓子を食べることが好きだったらしい。
 そういえば、セシリアを襲ったのも庭師と言っていたな、とジェロームは思い出した。彼女の愛する庭でそんなことがあったにも関わらず、いまもなお庭を愛している彼女がとても愛しいと感じた。もし似たようなことがあれば今度は自分がとっちめてやるつもりで、新しい庭師たちにはきつく言いつけた。そんなことがあれば鞭打ち以上の恐ろしい目にあうのだと。庭師たちは震え上がったが、彼らは彼らで日々の仕事に忙しく、恐ろしい夫のいる妻に手を出そうという不届き者は見当たらなかった。

 そんなある日のこと、セシリアがジェロームに渡したいものがあると言った。
「これを。開けてみてくださる?」
 渡された箱は、何の変哲もない木の箱だった。
 ずいぶんと飾り気のない箱だったが、中を開けると銀色のロケットが入っていた。中央には少し青みを帯びたダイヤモンドがはめ込まれていた。それだけでも良いものだとわかった。
「ほお!」
 取り出して、ロケットの中を開いて確かめる。内部にはリエーヴルの紋章が描かれており、これから写真を入れられるようになっていた。
「いったいどうしたんだ?」
「華族には内緒で作らせたんですの。私のようなもののところへ来てくださったあなたに、何か贈り物をしたくて」
 ジェロームはセシリアの心遣いに胸打たれた。
「いつも付けていてもらいたくて。このような形にしたのです。いかがでしょう?」
「これはいい。早速使わせてもらおう」
 さっそく鎖を手にして、首にかける。
「どうだい?」
「ええ。よく似合っておりますわ」
 セシリアの笑顔はとても晴れやかだった。

 それからしばらく、ジェロームは万事快調だった。セシリアとの関係もうまくいっていたし、領地の経営もなんとか身についてきた。唯一の気がかりはハロムの事だけだった。ハロムは小康状態が続いていた。痺れはいつまで経ってもとれず、ときには杖を使って移動しなくてはならなくなっていた。そのためほとんど自室に籠もりきりになり、義母もそれにつきっきりになった。
「もう長くないかもしれないな」
 ジェロームはハロムを哀れんだ。
 いくらサンドルク領を引き込めるかもしれないと思っても、これほど早くなるとは思わなかった。セシリアのことが片付いて気が抜けてしまったのかもしれないと、ジェロームはまだ楽観視していたが、それでも限度というものがある。村医者を呼んでも改善しないとなれば、もっと良い、都の医者を呼んだ方がいいかもしれない。
 それにジェロームも最近、疲労が取れないときがあった。自分では健康そのものだと思っていたが、慣れない領地経営の疲れがやってきたのかもしれない。とはいえ症状はそこまでではない。少し疲労が取れない時があるくらいのものだ。よく眠っているのに、眠れなかった時のような疲労感に似ていた。
「お疲れになっているのですわ」
 セシリアは労るように言った。
「お父様があのようなことになって、ここのところずいぶんと働いておいででしたもの」
「それはそうだが」
「お父様によく効く薬が無いか、私のほうでも街に手紙を送っておきますわ」
「街に伝手があるのかい?」
「ええ。一応は。ですから、あなた様はあなた様のなすべきことへと目を向けて、じゅうぶんに体をお休めになってくださいな」
 そう言う彼女の目には、なにも疑わしいことなどなかった。一点の曇りもなく、夫を心配する妻そのものだった。不貞も背信もその目に宿るものはひとつとして無い。しかしその目はジェロームを見ながら、もっと違う、遠いところを見ているような奇妙さがあった。だがその言葉に誘われるように、ジェロームは眠りに落ちていった。

 その晩、ジェロームは奇妙な夢を見た。
 夢のなかで、ジェロームはセシリアと庭にいた。
 ここは夢だと、どういうわけか思った。現実感の薄い感覚で、景色はどうにもぼんやりとしていたが、花が咲き乱れ、いまの庭とはずいぶん違う気がした。
 ジェロームは脚立の上か、小屋の屋根くらいの高さの場所に居た。どこにいるのかはわからなかったが、下からセシリアが呼んでいるのがわかった。セシリアは優しい声で彼に呼びかける。彼は拒否することなく、自然とそこから降りていく。汚れた手を服にこすりつけて遠慮したが、セシリアは構わずに彼の手を引いていった。見覚えのある道は、秘密のガゼボへと続いていた。セシリアが気に入っている小さなガゼボだった。彼女はポケットの中に隠し持ってきたクッキーを取り出し、ガゼボの真ん中にあるテーブルに乗せる。
 彼女はクッキーを一枚手にした。少女のように笑い、ジェロームに差し出す。普段の彼女に比べ、あまりに子供っぽい仕草のような気がしたが、ジェロームはさして気にしなかった。それを拒否することなんてあり得なかった。そうしてほんの少しの甘さを噛みしめるように、クッキーを彼女の手から食べた。ぱきりと音がする。彼女は手に残った半分を、迷うことなく自分の口に運んだ。二人で見つめ合い、笑う。ささやかな幸せがそこにあった。
 彼女の顔をよく見ようとする。だが、何かに邪魔されるようにぼんやりとしていた。
「――」
 セシリアは甘い声で、ジェロームを呼んだ。
 そんな気がした。


第4話

 婚姻から半年が過ぎた頃、ハロムが死んだ。

 ハロムはあれからまったく良くなる気配を見せずに、憔悴するばかりだった。最近では相手の言葉を聞き取れないようで、聞き取れない部分を勝手に推測して返事をしてくる。その言葉もどことなく不明瞭なため、使用人たちも意思の疎通がとれずに困り果てていた。かといってむやみに聞き返したりすればハロムの怒りに触れ、暴れようとした。これはもうお手上げだった。おまけに手足の痺れはどんどん酷くなっているらしく、最近では運動機能どころか日常の些細な動作にも苦労していた。もしかすると視界や感覚機能にも影響が出ているのかと素人目にもわかるほどだった。
 義母はそんな夫のフォローに回らねばならず、こちらもまた憔悴しきっていた。
 ここまでくると、何か妙なことが起きている気がした。
 ジェロームもまた睡眠不足に悩まされていた。きちんと眠れていない時があるようだった。
 そんな現実から逃れるためなのか、ときおり夢に見るのはセシリアとの逢瀬だった。自分でも意外なほど印象的だったのか、庭で出会うことが多かった。夢のなかのセシリアは現実の彼女と異なり、いかにも少女めいた若々しさがあった。妻ではなく恋人であるように、彼女はジェロームの手をとったかと思えば、振り払って駆けだして嬉しそうに花々に隠れてしまう。
「やあ、どこに隠れたんだい、お嬢さん。この悪戯っ子め!」
 彼女を見つけ出そうと、わざとらしく声をあげる。
 蜜月のごとき夢は、次第に現実味を帯びていく。
 なにしろ夢は日が経つにつれて鮮明になっていた。境目を失いっていた景色がくっきりと浮かび上がり、彼女の髪の艶までもが現実のようだった。そんな時間は日に日に長くなっているように思えた。まるで夢のなかのほうが本当の自分であるように錯覚してしまう。現実から逃げるように、幻の彼女に恋するように。
 だが無情にも夜明けはやってくる。鶏の鐘が鳴り、魔法は解ける。
 ジェロームは長く夢に浸ったあと、決まって疲れ切っていた。
 そうして逃げられぬ現実が目の前に立ち現れるのだ。果たしていかなる災難がこの家に降りかかっているのか、とんと見当もつかなかった。
 ハロムの様子は日に日に悪くなっていく。村のほうでは、ジェロームがこの領地を乗っ取るために毒を盛ったのだという噂さえあった。だが神に誓って、ジェロームはなにもしていないと言える。噂は噂を呼び、首を切られた男が一族を呪っているとか、セシリアこそが不貞の女であり、呪われた結婚だっただという根も葉もない噂まであった。
 しかしそんな状況でも――こんな状況だからこそなのか――セシリアだけはしっかりと前を向いていた。両親の具合が優れず、夫の様子さえもが良くないというのに。彼女の存在だけがこの家で光り輝いているようだった。少なくともジェロームにはそう見えていた。このときまでは。

 義父は死の直前になって、ジェロームを部屋に招き入れた。
「やはり都から医者を呼び寄せましょう」
 いくらジェロームでも、死の淵にある人間を放っておくことはできなかった。
「私の伝手で良い医者を知っております。セシリアも薬を取り寄せておりますが、限度というものがあるでしょう。あなたは村の医者を信用しているのかもしれないが――」
「……お、お、お前はいま、ちゃんとジェロームか?」
 ハロムは不明瞭な発音ながら、そう尋ねた。
「なんですって?」
「お前は、お前でなくなっている時がある……」
「……どういう意味です?」
「なら――聞け! 聞いてくれ。頼む、いまさらなんだと思われるかもしれん。だが、だが、あの子に気をつけろ……」
 ジェロームは戸惑った。
 少なからずショックを受けていた。気をつけろとは、どういう意味だろう。
「お前は、おまえは……」
 ジェロームは考え込むように、下を向いた。目を閉じたところまでは覚えている。だが次に目を開けたとき、まるで眠りから目覚めるような感覚に襲われた。自分が一瞬、どこにいるのかわからなかった。長い沈黙を挟んだ気がした。だがそうして顔をあげたときには、もはやそれどころではなかった。ベッドの上で横たわるハロムは、驚愕を浮かべた表情のまま、凍り付いたようにその一切の動きを止めていた。死神が不意に鎌を振り下ろしたかのごとく――その表情は恐怖に引きつり、忌まわしい凶事を暗示していた。
「だれか……」
 真っ青な顔でジェロームは叫んだ。急いで扉を開け放ち、声を張り上げる。
「だれか! 人を呼べ! 義親父殿が!」
 それからすぐに医者が呼ばれ、死んでいると告げられるにはそう時間は掛からなかった。

 村のなかではたちまちのうちに、噂が膨れ上がった。もしかして本当にジェロームがハロムを殺したのではないかと――そう囁かれた。なにしろまだ半年だ。半年前にはまだ元気だった人間が、これほどまでに憔悴しきるだろうか。そしてハロムはジェロームの目の前で死んだ。恐怖に歪んだ引きつった表情で。噂が都にまで流れていくのは時間の問題だろう。
 ジェロームは現実から逃れるように、夢のなかに沈んでいった。
 夢のなかで、少女のごときセシリアが手をとって、森を進む。手を大きく広げ、踊るように跳ね回り、月の下でスカートを翻す彼女は本当に小さな娘のようだった。
 しかしこれまでと違って、ジェロームはその光景を窓の中から見ているような感覚に陥っていた。間違いなく自分の視点であるのに、まるで別人が体を操作しているのを見ているような感覚だ。
 久々の逢瀬を楽しむ若き魔女を、どうにか捕まえようと手を伸ばす。笑い声が木の裏から聞こえたかと思えば、すぐさま振り払って茂みの向こうから。三度目にその背中をとらえたとき、肩に手を置いてようやく捕まえた。彼女は振り返ると、ジェロームを下から見上げて頬を染めた。ほんの少し目線を逸らしてから、今度はじっくりと目を合わせる。恋と愛とが混ざり合った目だった。彼女は甘い声をあげて抱きつき、唇を重ねる。喜びに溢れた口づけのあと、潤んだ目で名を呼んだ。
「ニール」
 彼女が呼んだのは彼の名ではなかった。


第5話

 口さがない人々の噂話は小さな村をあっという間に蹂躙した。
 呪いだの領地の乗っ取りだの、それまで茶化すように言われていた話が一気に現実味を帯びたのだから仕方ない。田舎にいるのが純朴な青年だけかと思えば大違いだ。実際のところは暇で仕方のない人々が、自分たちを支配する貴族の醜聞は無いかと目を光らせているだけだ。そうして溜飲を下げ、笑うことしかできぬ下卑た人間どもの集まりなのだ。
 義母マリアは夫のことや村での噂に精神的に疲弊してしまったらしく、今度は彼女が部屋に引きこもるようになった。ベッドに伏せ、信用している小間使いしか近くに寄せ付けないようになった。セシリアもまたマリアの部屋へと頻繁に向かったものの、実の娘のことさえ拒絶しているようだった。
 本来であれば下々の噂など笑い飛ばせばいい。しかしそんなプライドはもはや戯れ言めいて、意味を成さなかった。
 ジェロームもまた、精神的に参っていた。疲労からか、気がつくとそれまでいた場所とは違う場所にいたり、書類に自分が書いた記憶の無い言葉が書き込まれていたりと奇妙な事に悩まされるようになっていた。勘違いだと自分に言い聞かせる。そう頻繁ではないものの、ちょっとした異変が続くと現実逃避のひとつもしたくなってくる。
 しかし夢のなかでさえ、ジェロームは恐怖に戦くことがあった。
 その日のジェロームは冷たい床に座り、視線を落としていた。地下室のようだった。周囲には何人かの人間がいて、靴だけが見える。自分の意思とは関係なく、顔が一度だけあがって周囲の人間を見る。少し離れたところにハロムがいて、こっちを見た。ハロムの手はギロチンに掛けられていたが、その顔には僅かな不安と恐怖が浮かんでいた。周囲に立ちすくんでいた人々が手を伸ばし、彼の体を掴んで引きずった。その首をギロチン台に近づける。途端に何が起きるか理解すると、彼は悲鳴をあげて手を止めさせようとした。
 だがそんな恐怖とは裏腹に、ジェロームの体はこれから何が起きるか知っているように、黙って首を差し出した。
「やめろ、やめてくれ……」
 その声は自分の喉からは出ず、ただ起きていることを窓のこちら側から見ているしかなかった。ハロムの方を見ようとするが、自分の体なのに指先ひとつ動かすことができない。震える手がギロチンのロープへとかけられたのがわかった。空を切る音がする。
 そうしてジェロームは悲鳴とともに飛び起き、全身に汗をかいていた。
 あの甘い夢はどこへ消えてしまったのか。
 もはや夢のなかに逃げることもできなかったが、ジェロームはそれで戸惑うことはなかった。むしろこんなときだからこそ夢も変なものを見るのだと自分に言い聞かせる。あまり使われていない狩猟室へと足を向けると、こんなときこそ気分転換に限るのだと、ジェロームは自分に言い聞かせた。

 その日の仕事を終わらせると、近くにいた使用人にひとつふたつ言づてを言いつけてから外へと出かけた。その足は村へは向かわずに、炭焼き小屋へと向けられた。森にほど近い小さな小屋へと向かうと、主人の姿はすぐには見つからなかった。主人よりも繋がれた犬が先に気付き、撫でてほしそうに近寄って舌を出した。
「よーしよし、賢い子だ」
 既にジェロームのことも認知しているらしい。撫でてやると嬉しそうに尻尾を振った。そのうちに薪の束を持ったジズが戻ってきて、頭を下げた。
「おや、ジェローム様。すいません、席を外していて」
 薪の束を一旦置くと、帽子をとってもう一度頭を下げる。
「構わんさ。それよりジズ、機会が来たぞ。明日なんてどうだい」
「鹿撃ちですかい。アタシは構いませんよ。他に同行者は?」
「わたしひとりだ。準備をしておいてくれ」
「わかりやした」
 ジズは頷いて、帽子をかぶり直した。
 犬の頭を何度か撫でながら、ジェロームはふと思い出したことがあった。
「そういえば、あれから獣はどうなった?」
「はあ、獣ですか。それらしい気配はありませんな。奥のほうへと逃げていったのかもしれません」
 どこかきょとんとしたようにジズは答える。
「それは僥倖だ、ちょうど良かった。ようやく面倒なくこの森に入れるな。期待していた成果があればいいんだがね」
 顔を舐めてきた犬に笑いかけながら言ったが、やはりジズはどこかおかしな表情をしていた。
「そうは言いますが、ジェローム様。ジェローム様も、最近はよく森においでになったではありませんか」
「なに?」
 ジェロームは呆気にとられた。
 犬を落ち着かせると、目を瞬かせる。
「わたしがひとりで森に入ったと?」と尋ねてから、「見間違いだろう」と続ける。
「わたしはここへ夫としてやってきてから、いまだ自分の趣味にさえ没頭できなかったのだから」
 だがジズは首を振った。
「いいえ、いいえ。ジェローム様だけではありませんや。セシリア様もご一緒していたではないですか。ずいぶんと仲睦まじいご様子で、館でお見かけするときとはずいぶん違って見えましたので、これはお邪魔してはいけないなと」
 ジェロームは今度こそ言葉を失った。
 立ち上がってジズに近づいていくとき、相当にひどい顔をしていたのだろう。ジズはやや怯えたように、動揺した顔で目線を逸らした。
「すみません、見るつもりはありませんで――」
「それは、本当にわたしだったのか?」
「え、ええ。確かにジェローム様でした」
「いつの話だ?」
「いつと言われましても……そのう」
 老人の目は戸惑いがちに伏せられる。
「いいか、これは命令だ。重要なことなんだ。言ってくれ」
「いちばん最近では、確か、ハロム様が亡くなって二、三日ほどしたあたりで……」
 ジェロームは深く息を吐いた。
「では、最後にもうひとつだけ教えてくれ」
「は、はい」
「セシリアを襲って死罪にされた庭師――そいつの名前はなんだった?」
 唐突な質問にジズは少し戸惑ったが、老人は的確にその名を告げた。
 いまにも襲いかかってしまいそうな自分をなんとかおさえ、怯える老人の肩を軽く叩いた。何度も頷き、「わかった」と小さく言ってから踵を返した。
 炭小屋から引き返し、足早に屋敷に戻りながら、強烈な既視感の正体を探る。
 ハロムが死んだあと、森のなかで、セシリアと連れだってダンスのように踊る。まるでそれが当然というように。それは夢のなかだけの存在しないはずの記憶だったが、間違いなく現実なのだ。
 彼はもうその答えにたどり着いていた。答えを知っていた。知っていてなお、受け入れることができずにいた。身震いする。
 あれは実際にあったことなのだ。
 だが――だがそのときの自分は、明らかにジェローム自分ではなかった。
 ニールだ。
 庭師のニール。
 死人が自分に成り代わろうとしているのだ――いったいいつからこんなことに?
 ジェロームははっと気付いて館にとってかえすと、まだ自分が自分であるうちに震える手で手紙を一枚したためた。


第6話

 それから少ししたあと、サンドルクに一人の男が入り込んだ。
 彼はアルメ領でパストゥール家に仕える男で、名をパックといった。
 パストゥールの二人の兄弟と年が近いこともあり、パストゥール兄弟の遊び相手として育った。一緒になって悪戯をして叱られることもあれば、ともに授業を受け、兄弟の話し相手としても通用するように躾けられた男である。青年になってからは、小間使いとして連れ添って遠乗りに出かけたり、森で鹿撃ちに出かけたりした。パックも兄弟によく従い、また兄弟もパックのことを信用していた。
 兄は弟からの手紙を受け取ってすぐに、パックに命じてサンドルクの村で調査をするように言った。彼はすぐさま頷いて、サンドルクに飛んだ。途中で手に入れた小汚い恰好をして、泥で髪色を染めたあと、少し猫背になった。旅人のように荷物を持ち、卑しい言葉遣いを練習してから村に入る。
 酒場に入ると、見慣れぬ男にちらりと視線が向けられたが、すぐさま視線を逸らされた。
「お客さん、見ない人だね」
「ああ。サンドルクを通って、隣の領地まで行く途中でさあ。親戚に会いに行く途中でね」
「へえ、そうかい。金さえあれば歓迎だ。何か頼むかい?」
 パックはエールと魚の揚げ物と、野菜スティックを注文した。少なくとも注文さえしておけば店主は口を開いてくれるだろうと踏んだのだ。
「そういえば、ここに来る途中に聞いたんだがよ――ここの領主のセシリアって女は、庭師に手込めにされたってのは本当かい?」
 パックが尋ねると、店主は少しだけ顔を曇らせたあと、きょろきょろと辺りを見回した。
「滅多なことを言うもんじゃないよ、お客さん」
「でもよう、処女じゃない女を嫁にするなんて、旦那もよっぽどだぜ。本当はどうなんだい、ん?」
 パックは飲み干した木杯の中に、硬貨を滑り込ませた。
 突っ返された木杯の中身を確認した店主は、少し困ったような、笑うような顔をした。少し咳払いをした。
「ここだけの話だがよ」と小声で言う。「実は、セシリアお嬢さんと、庭師の……ニールってやつは、恋仲だったんだとよ」
「へええ?」
 パックは目を丸くした。
「じゃあ、襲われたってことにしたのかい」
「まあそんなところさ。貴族のお嬢さんと、村の男じゃあ外聞が悪いからな。二人はそれとなく隠してたみたいだが」
 なるほど、とパックは頷いた。
 しかし、店主の話はまだ続いているようだった。
「だけどよ。ここから先がおかしな話でな――そのニールってやつの首を切れと言ったのは、他ならぬセシリアお嬢さんだっていうんだ」
「えっ?」
 思わず、心からの声が出た。
「なんでもよう、ニールと結ばれないのなら、思いを断ち切るためにニールの首を切ってくれと言ったらしいんだ。首を切って、森に捨ててくれと。そうでなければいますぐに自分の命を絶つと言ってな。すごい話だろう?」
「そりゃあ……ああ、その、親父殿はどうしたんだ?」
「最初はお嬢さんが錯乱しちまったとだれもが思ったみたいだぜ。さすがにハロム様もびっくりしたんだそうだ。そりゃあハロム様だって、自分の大事なひとり娘が誑かされたとなれば黙ってはないが、まさかお嬢さんがそんな事を言うなんて思わなかったんだろうよ。だけどあまりにお嬢さんが迫るものだから、とうとうハロム様は首を縦に振ったんだ」
「それで、首を切ったと」
 店主は頷いた。
「ああ。そのときから、ハロム様は自分の娘のことを恐れていたんだよ。実際、お嬢さんは人が変わったみたいになっちまったからな。表向きには何も変わってないが、ここらじゃほとんどみんな知ってる話だ。だからハロム様が死んじまったのも、ニールの呪いなんかじゃなくて、本当は……」
 店主はそこまで言いかけて、あまりの恐ろしさに身震いした。
 パックは店を出ると、急いで来た道を引き返した。このサンドルクで何が起きているか、主人へ報告するために走っていった。


第7話

 アルメ邸にサンドルクから届けられた手紙は、二通あった。
 一通が先にやってきて、その後にもう一通、遅れたようにやってきた。
 それはリエーヴルに婿入りした弟からの手紙で、一通目はずいぶんと筆跡が乱れていた。

「わたしの身に起きていることをすべて説明できるか自信がない。
 しかしわたしがわたしであるうちにこの手紙を書いてしまわないと、きっともう時間が無いのだ。
 同じ手紙を書くのももう四回目になる。その間にもいろいろなことがあった。

 わたしの時間はいまや、ほとんどあいつに乗っ取られようとしている。水の中にインクを浸していくがごとく、わたしは別の人物に成り代わろうとしている。
 セシリアは庭師に襲われたのではなく、庭師と結ばれぬのならば別の手段に出ることにしたのだ。恐ろしい策略がそこには隠されていた。セシリアは森の魔女と共謀し、森に捨てられた庭師の死体を回収させた。そうして錬金術で――恐ろしいことに――その死体からダイヤモンドを作り出したのだ! そして庭師の魂ごとわたしに引き渡し、わたしの体を乗っ取ろうとした。いまやわたしが本来のわたしとしていられる時間は一日にほんの二、三時間ほどしかない。生活のほとんどがわたしではなく、別の人間として過ごしている……。
 セシリアが義親父殿に与えていたという都の薬もでたらめだった。
 彼女は都に手紙など送ってもいなかった。彼女は都の医者から貰ったなどと言って、水銀を与えていたのだ。都に送った義親父殿の髪の毛から水銀中毒がわかったとき、わたしはすぐさまセシリアの部屋を探し回った。中身が空の状態の薬のカプセルがいくつか見つかった。おそらくこの中身に水銀を入れていたのだ……。
 セシリアは庭師の男と結ばれるために、わたしを使ったのだ。

 これからわたしはセシリアを殺す。
 そうしてわたしは自分も死ぬつもりだ。そしてわたしの中にいる亡霊ごとすべてを終わらせる。
 戯言などと言わないでほしい。すべてを神はご存じなのだ。だからわたしはもうこの身を神に委ねるしかないのだ。
 どうかまだわたしでいるうちに、この懺悔をさせてほしい」

 鬼気迫る手紙の次にやってきた二通目はずいぶんと落ち着いた文字になっていた。
 だがその文字はジェロームのものではなかった。

「すまない、兄さん。
 慣れない仕事と義父のことでずいぶんと参っていたんだ。
 セシリアの不貞を疑ったり、奇妙な噂に惑わされたりとおかしなことになっていたんだ。
 精神安定の薬を貰ったらずいぶん楽になった。
 あの薬師の婆さんを魔女などと揶揄してしまったのも、いまとなってはおかしなことだと思っているよ。
 少し精神過敏になっていたようだ。いまは万事快調だから、なにも心配することはない。
 一通目の手紙もできればそのまま読まずに捨ててくれ。
 なにも無かったのだから。」


サポートありがとうございます。感想・スキなど小さなサポートが大きな励みとなります。いただいたサポートは不器用なりに生きていく為にありがたく使わせていただきます。