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"美食の追求"のために本業のオペラ作曲家を引退した人物とは!?


レストランで、「〇〇のロッシーニ風」というメニューを見たことがある方はいるだろうか。

実はこの名前の由来、19世紀初めに多数のオペラを作曲し、人気を博したイタリア人作曲家ジョアッキーノ・ロッシーニなのである。現在でも多く上演される「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」などは有名である。

一方で、美食家としての一面もあったロッシーニ。音楽家を早々に引退し、大好きな”食”を思う存分楽しんでいたというから驚きである。

今回は、この大作曲家ロッシーニと、彼が作曲した作品、彼の美食家としての一面について書いていこうと思う。



音楽家としてのロッシーニ


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(Wikipedia より)


・1792年イタリア・ペーザロ生まれ。

・歌手であった母親から美声を受け継ぎ、歌手として才能を認められる

・その後、作曲でも頭角を現し、18歳でオペラ作曲家としてデビュー

・ユーモアに富んだロッシーニのオペラは徐々に人気が高まり、20代にしてイタリア全土で名が知られるようになる

・24歳の時、オペラ「セビリアの理髪師」の初演がローマで行われ、人気を博し、オーストリア・ウィーンでも上演される。陽気なロッシーニのイタリア・オペラに、ウィーンの聴衆も虜になり、30歳の時にはウィーンの劇場で音楽監督を務めた。

・ウィーンでは、憧れの作曲家の1人であったベートーヴェンに出会う。ベートーヴェンはロッシーニの才能を評価しつつも、彼の音楽を「時代の求めに応じた大衆娯楽」として、芸術を堕落させる一因とも考えていた。

・ロッシーニ自身は、時代に反逆する音楽家としてよりも、時代に求められる音楽を作ることを選び、次々と新作を発表し、活動範囲もパリロンドンと広げていく。

・37歳の時、突然オペラの作曲から事実上の引退をし、沈黙のまま表舞台から姿を消した。


ロッシーニの代表的な作品

生涯に39のオペラを作曲したロッシーニは、イタリア・オペラの作曲家の中で最も人気のある作曲家の1人だった。ただ、先にも書いたように、実質の作曲活動期間は短く、20年間に満たない。絶頂期には、1年間に3~4作品も大作を仕上げていた。オペラ「セビリアの理髪師」はなんと3週間で完成させたというから驚きである。


(オペラ「セビリアの理髪師」(1816年ローマ初演)より)




(オペラ「チェネレントラ」(1817年ローマ初演) より)





(オペラ「ウィリアム・テル」(1829年パリ初演)より)





ロッシーニの作品は「セビリアの理髪師」のようにオペラ・ブッファ (イタリアのナポリで生まれた、人間の日常的な姿を描く喜劇的なオペラ)が中心だと思われがちだが、

キャリアの後半期もっぱらオペラ・セリア (1710年代から1770年頃までヨーロッパで支配的だった、高貴かつ「シリアス」なオペラ)の分野で傑作を生み出している。



人生の半ばに相当する37歳の時に大作「ウィリアム・テル」を作曲した後はオペラ作曲はせず、サロン風の歌曲ピアノ曲宗教作品を中心に作曲を行った。



ロッシーニが引退した理由は"美食の追求"!? 


ロッシーニがオペラ作曲家として事実上の引退をした理由として最も有力なのは、"美食の追求"と言われている。

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(牛肉とフォアグラのロッシーニ Wikipedia より)


裕福な家庭出身でなかったロッシーニは、オペラの作曲で交流した貴族たちとの出会いから、美食に目覚めたそう。

引退後に拠点をおいたパリでは、毎週サロンを開き、招待客たちに美食と音楽を振る舞ったと言われている。

事実上オペラ界から引退した後も、"食通作曲家"として、ロッシーニの評判は生き続け、サロンはパリ社交界の注目の的になったそうだ。



ロッシーニは、サロンでの演奏用に「食」にちなんだ曲も作曲した。これらは、「老いのいたずら」と題したアルバムに収められている。



(「老いのいたずら」より"やれやれ! 小さなえんどう豆よ")



(「老いのいたずら」より"ロマンティックな挽き肉料理")



終わりに


今回は、ロッシーニの本業である"作曲家"としての一面と、"美食家"としての一面をご紹介した。


筆者は、クラシック音楽家の生い立ちやエピソードなどを調べることが好きなのだが、いわば"裏の顔"を知ることにより、より人物や楽曲が身近に感じられるのではないかと感じた。

これからもまた面白いエピソードがあればこちらで紹介していきたい。



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