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論理的思考力の取り扱い方についてのお勧め 〜やたらと「論破」してしまうことを避けるため

はじめに

ここでいう「論理的思考力」の位置づけは、巷に溢れる誤用や誤解を駆逐するための最終版定義などではありません。ただ、なにかと毀誉褒貶の激しいこの言葉について穏当な受け止め方をすることが、多くの、特にこれから自身の意思の力で勝負をしていかなければならない若い世代の人達にとって有用なのではないか、という着想から、その穏当な受け止め方の具体的内容について書き連ねたものになります。私は大学修士課程を終えた後でいわゆるコンサルティングファームに入社し、主にITの分野でコンサルティング業務に携わって来ました。キャリアとしてはそろそろ20年になります。思えば子供の頃から「理屈っぽい」と言われ続け、中学時代にはじめて覚えたプログラミング言語は一階述語論理に基づいたPrologでしたし、大学で所属したサークルは理屈屋の巣窟である推理小説研究会でした。その意味では実務的な制約を持つコンサルティングサービスやIT技術関連のプロジェクトワークで求められる論理性は、それまで趣味や学習、研究などで弄んできた論理に比べれば極めて単純なものであり、わざわざ「論理的思考力」などという大仰な看板を立てて仕事をすることには、新人の頃などは特に後ろめたさを感じたものでした。

コンサルティングビジネスには論理的思考力が求められる、ということは常識的な主張として一般に受け入れられているように思われます。ですが、そこでいう論理はやはりいわゆる論理学や数学基礎論などで求められているようなものではなく、もっと日常言語の運用の中で収まるような、ある種厳密さとは正反対の性質を持つものです(当たり前ですが)。論理とは推論の手順を順におっていけば誰にでも妥当性の検証ができるものです。「思いもよらない」ような新奇的なアイディアを生み出すためのものではありません。論理的思考力とほぼ同様の意味を持つであろう推理力には、読者や作中人物にとって「思いもよらない」ような真犯人を暴く名探偵が持つ力、というニュアンスがあります。が、シャーロック・ホームズが「四つの署名」などで言っているように(いや、似たようなことは何度も言ってるのですが)、「あり得ないことを全て排除した上で残ったもの」などの形で不正解を排除するところが論理なのであって、残された意外な真実そのものを思いつくところに論理性はないのです。(ホームズがそのような全ての可能性が可能であったことの背景にはビクトリア王朝時代の階層社会などの特殊な条件があったというようなマニア向けの議論の蓄積もあるのですが、ここでは残念ですが深入りはしません)

論理の中でもとりわけ典型的な、いわゆる演繹的な推論からは新たな知識は生まれない、ということは一般にもよく言われています。それ故にビジネスの分野でも論理的思考力は「問いがはっきりしている」「正解がある」などの場合にのみ有効なものであり、現代ではむしろ問題発見力が必要であるとか、その為にはデザイン思考などの別の手法が有効である、などという主張を目にすることもしばしばあります。(例えば、工学系だけでなく経営学分野においてもデザイン思考が取り入れられるようになったのは今から十年以上前のことです)

しかし、創造的な仕事を行うためには論理的思考力は不要で、そこで求められるのはもっと別の能力である、とか、変化の激しい「正解のない」時代において成果を出すためには論理的思考に拘るべきではない、などと言ってしまうと、それは飛躍ではないでしょうか。論理的思考力は予め設定された問いの中で正解を導き出すためだけのものではなく、ましてや討論あるいは議論の場において相手を打ち負かすためのものではなく、他の面でも有効な能力である、という話をしたいと思います。

論理的思考力はチームワークの礎である

論理的な思考、というと感情を排した、なにやら冷たい印象があると思います。論理的な人は議論に強く、しばしば相手を論破している、というイメージを持っている人も多いかも知れません。が、ここでは、他人と協力してチームワークを遂行するためにこそ、論理的思考力が要求される、ということを主張していきます。

まず、チームワーク、という言葉でどのような働き方を想定しているのか、ということから始めましょう。この二十年くらい、あるいはもっと以前からかもしれませんが、「プロジェクトワーク」「ナレッジワーク」というキーワードで表現されるような働き方が一般化してきたという経緯があります。プロジェクトワークとは、ルーチンワークの対義語で、独自の成果を求める・一回限りの期限つきの取り組みであるプロジェクトを推進するという働き方です。企業自体には期限は想定しません(ゴーイングコンサーン、継続企業の前提)、その組織構造も変化はありえますが一般には期限は設定されません。しかし、プロジェクトには必ず期限があり、その前提でメンバーも割当られます。同じ目的の仕事を繰り返すのであればルーチンワークとして永続を前提とした組織が遂行していくのが最も効率が良いと考えられます。プロジェクトは、やる仕事の内容を変えたり、仕事のやり方を変えたり、組織の在り方を変えたり、そもそもの目的設定から見直したり、と「何かを変える」ために立ち上げられます。ビジネスの世界では、ずっと同じ事だけをしてる、というのは良いことだと見なされません。恐らく、ビジネスに限らず競争が継続する環境においては、変化を一切おこさない存在はいつか必ず他の競争相手によって克服されてしまう、ということからくる帰結なのだと思います。どれだけ今の仕事への集中を止め、変化のために力を注ぐべきか、という問題はありますが、変化は常に求められるということです。そのためプロジェクトワークも一般的な働き方の一つとして定着してきました。このプロジェクトワークのために組織の外部から有期的に調達される人員、というのが「コンサルタント」の一つの定義でもあります。(ルーチンワークのためである場合は派遣社員と呼ばれます)。コンサルタントというのは専門的な知識・経験・スキルの切り売りである、という捉え方の方がより一般的であったかもしれませんが、現在のコンサルタント市場におけるニーズは、個別の業界それぞれの専門知識よりもまずプロジェクトワークそのものへの習熟こそをコアとなる価値であると見なしていると思います。もちろん、その上で個別の業界の知識や経験も求めてはいるのですが、そういった部分は顧客自身によって補完しやすいということもあります。プロジェクトが分かりやすく失敗するのはプロジェクトマネジメントをはじめとするプロジェクトワークそのもののパフォーマンスに起因するものがほとんどです。(専門知識の不足などによる問題は、そもそもプロジェクトの目的設定自体が不適切で、形としては成功裏に終わったプロジェクトの成果が長期的に見て期待外れだった、などのわかり難い形になりがちなので)

次にもう一つの現代的な働き方の特徴である「ナレッジワーク」です。これをピーター・ドラッガーが提唱したのは1960年なので、最近の傾向と言うのも少しおかしいのですが、知的生産物を生み出す「能動的な」労働者、といったような意味の言葉です。予め定められたやり方にそって成果をだす「マニュアルワーカー」との対比で語られることが多いと思います。自分でよいやり方を見つけ出すことができる人が、そのこと自体を求められるポジションにつくことで成立します。

さて、ようやく「チームワーク」に話を戻します。ここでいうチームはプロジェクトチームとして部門横断で集められた人達であるとか、特定の部門の中ではある特定の目的に向かって結成されたグループなどを意図しています。企業組織というものはそれ自体、個人個人の限られた能力の壁を超えて活動することを目的としているとも言えます。したがって複数の人の力を統合して組織の成果としなければならないわけですが、少しでもチームでの活動をしたことがある人であれば(つまりはほとんど全ての人にとって)、それが単なる個人の力や成果の足し算にはならない、というのは明らかです。人間同士の相性や感情の問題もあるでしょうし、それぞれが背景に持っている知識の差からくるコミュニケーションの非効率の問題もあります。複数の人の成果を束ねるところにも課題があり、それぞれの状況にあわせたテクニックやノウハウも存在します。そして、プロジェクトチームは独自の成果を求められ、既存の仕事のやり方に則った作業を行えば成果に繋がるとは言えない立ち場にあります。つまり、ナレッジワーカーたることを求められているわけです。したがって、ここでとりあげる「チームワーク」、プロジェクトとして独自性が高い成果を求められた複数のナレッジワーカー達の協調的な働き方、ということになります。こういう性質を持つチームのメンバーには「論理的思考力」が必要であり、実際の仕事の現場で求められる「論理的思考力」はほぼこの協調のためぐらいである、というのが本論の主張です。

素早くそれなりに良い感じの答えを得たければ、仮説思考を使わざるを得ない

まず、大前提として、ここで問題とするチームワークは企業活動などの競争環境の中で行われる活動である、ということがあります。競争相手がいて、外部環境は程度の差こそあれ常に変動しています。そこで意味のある活動をするためには、やはりプロジェクトとして期限付の打ち手を打っていく必要があります。つまり、じっくりと時間をかけて静的な課題としてその時点での理論的最善手を追求することが正しいとは限らない、むしろそれは悪手であることが多い、ということを言っています。理論的最善手とは、それこそ本当にあらゆる打ち手を列挙して(それ自体が厳密な意味では実現可能性がありません)、それぞれに対してスコアをつけ(スコアリングの基準をどこに持っていくのかもまた自明ではありません)、そこで最高得点を取るもの、という意味です。もちろん列挙せずともそれこそ論理的に他のあらゆる候補がそれよりも低いスコアにならざるを得ないことを証明するというアプローチもありえるかもしれませんが、それだってスコアリングの基準が明確になった上で様々な好条件に恵まれた上でなければ不可能事であると言ってよいでしょう。

では、どうしたら良いのか。まずスコアリングの方法については何らかの設定が必要です。(後で見直して別の方法を試す余地もあるかもしれませんが)。その上で、適当な仮の手を幾つか設定し、そのスコアを算出して低いものは却下、良いものだけを生き残らせて、色んな打ち手を比較してベストではなくベターを選んでいくという方法があります。その試行錯誤を時間的な猶予が認められる範囲で繰り返し、検討した中で最良のものを残すことができれば、一応の成果を出すことは出来るように思われます。このアプローチ自体、演繹や推論とは別の論理の手法である類比思考(アブダクション)を想定したもので、その運用のために「論理的思考力」を要求するものではあります。どんな仮の手(仮説)を思い付くかというところに論理性はなくとも、スコアリングの基準を適用しどちらが良い手であるかを判定し、良いものを残す、という手続きを実行するための能力は「論理的思考力」と呼ばれるものか少なくともその一部であると言えるからです。しかし、ここで「論理的思考力」が有効な理由はそれだけではありません。

これまでは、複数の打ち手がフラットに並んでいて、その中で最良のものをただ選べば良いかの様に書いてきましたが、実際の検討事項はそこまでシンプルな構造になっていません。選ぶべきアイディアには構造や組合せが存在します。例えば迷子の犬を保護したとします。弱っているように見えますが怪我や病気という程ではなさそうです。何か食べ物を与えて回復を待ちたいがどんなものなら食べてもらえるかわかりません。手に入るドッグフード何種類かを少しずつ順番に与えて、食いつきがよかったものを当座の最良解として採用する、というのがフラットな打ち手を単純に選ぶ、というケースにあたります。実際には、出す順番が問題かもしれないですし、徐々に慣れてきたことで本当はもっと前に与えようとしたものの方が良いのに食べてくれたのは後ろの方の選択肢だったということもあるかもしれません。二種類以上のものを組み合わせるともっと喜んだとか、決まった時間にならないと食べようとしないとか、器が問題だとか、あるいは完全にどのドッグフードに対しても反応に変化がない食に拘らないタイプだったなんてこともあるかもしれません。そうしたレベルの条件分岐までチェックした上でより良い解を求めるか。あるいは逆にまず、適当に選んだドライタイプとウェットタイプのもの一つずつを同時に与えてどちらを選んだかを絞込み、次に選ばれたタイプのフレーバー違いの中から好みを探るという、構造化されたアプローチによって試行数を節約するという方法で良しとするか(フレーバーよりもタイプの選好が常に優位であるというかなり強い前提を置いたアプローチになります)。などなどと考えだすと事態は複雑になります。しかし、複雑に考えれば考えるほど全ての組合せを検討することは難しくなり、ある程度凝ったモデルに従って判断していこうとすればますます仮説思考に頼らざるを得ないことがわかると思います。

仮説思考をチームでやるなら

そこで、現代的な仕事、すなわちプロジェクトワークとナレッジワークの性質を持つ仕事は仮説思考でやらないと間に合わない。企業でそれを行う以上は、それをチームワークで回していく必要がある、ということになります。仮説の設定と検証の積上げを、複数人で分担して実行していくということです。他者と協同での試行錯誤。ここにこそ「論理的思考力」が求められます。

仮説というのはある程度外れることを見込んでいます。検証して外れとなれば、エジソンがいうところの「上手くいかない方法を発見」したことになります。手にした情報は増えているわけです。しかし、この発見をうまくチームメンバーと共有できなかった場合はどうでしょうか? そのメンバーはあなたと同じ仮説を再度独自に検証し、やはり外れであることを確認するという作業に時間を使ってしまうかもしれません。これは明らかな無駄です。また、仮説というのは検討の前提を仮置きするということですから、それを設定することでさらに次のレベルの検討や推論が可能になります。その前提が後で棄却されるとなれば、それに依存している議論は撤回なり修正が必要になります。この個々の議論の結論が、どの前提条件に依存しているのか、という関係性の把握はまさに論理的思考力そのものです。限られた時間の中で、どのような仮説を設定して検証するのか、を分担し、さらにそれぞれの前提条件が変わった場合には何処にどう影響がでるのかを把握した上で次の打ち手を考える、ということを継続していかなければなりません。チームメンバー同士の力、貢献が噛み合ってなければそれは不可能です。そのためには、背中を預けるチームメンバーには、自分を含めた他のメンバーの検証の内容や結果が自分のそれとどう関連しているのかを理解していてもらわなければなりません。そういう判断を妥当にこなせるだろうという信頼感こそが、そのような現代的チームワークを成立させるための大前提になっているわけです。だからこそコンサルティングファームはメンバーに論理的思考力を求めます。顧客とのディスカッションにおいて相手をやり込めて自分達の結論を飲み込ませる腕力を求めているわけではないのです。

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