信頼を得ると仕事がしやすいけど、仕事をすることで信頼を得るのは遠回りなのかもしれない

若者に迎合したタイムパフォーマンス向上ライフハックみたいなタイトルになってしまいました。が、多分そういう内容にはならないと思います。

仕事で高いパフォーマンスを発揮できるかどうか、を個人の資質に帰着して語る場合に昨今特に人気なのが「コミュニケーション能力」です。私は、よく喋るタイプのコミュ障を自認しているので、コミュニケーション能力に対してこのようにわかったようなことを書き散らすことには気が引けるところもあるのですが、今回は主にこのコミュニケーション能力の話をします。

コミュニケーション能力は、非常に意味の広い(曖昧な)言葉ですが、「社交性が高くて物怖じをしない」というような性格的な要素については深追いせず、情報量の大きいメッセージを誤解や損失なく相手に伝えられる、送信と誤解や損失なく受け取れる受信の能力の組み合わせ、ぐらいのざっくりしたイメージで考えていきたいと思います。しかし、この大雑把なイメージの時点でまず一つ目のつまづきがあります。人は、一度に送信と受信のどちらかしか担当できません。そして当然受け持っていない側を担当する「相手」が必ず存在します。「伝わった」という結果で計測しようとしているにもかかわらず、つまりパフォーマンスは相手に依存するのにそれで「能力」を測るというのは合理的ではないのではないか、という疑問がわきます。

仮にとても理解力が高い人ばかりを相手にしていた場合、本人固有の能力の如何によらず、その人は「コミュニケーション能力が高い」という結論になってしまいそうです。それは、能力の定義としては少し不自然である気もします。

理解力の高い相手の存在は能力の一部と見なせるか?

一見、相手の能力である「理解力」を自分の能力の一要素と見なすことは適切ではないように思えます。しかし、例えば、理解力の高さを見極めて、そういう相手だけを選ぶ選球眼のようなものがあった場合、長い目で見るとその人のことを「コミュニケーション能力が高い」と言ってしまっても、それはそれで違和感がない気もします。そして、それ以上に、もし、相手の「理解力」を向上させることができるのであれば、それは立派な本人の「コミュニケーション能力」一部であると言えそうです。そして私は、「理解力」はコミュニケーションをとる相手によって(も)大きく変化し得ると思います。

相手の理解力を高める方法はあるか?

単に変化するだけでなく、高める方向に寄せる要因というのはありえるでしょうか。理解力が高いというのはどういうことか、ということ考える必要があります。ここでは、結果としてメッセージが届くという結果で評価しているわけですから、例えばメッセージを解釈するための手がかり(文脈情報など)が与えられていると、正しく伝わる可能性は高くなります。それは外から観察する限りにおいて、理解力が高いと見なされそうです。メッセージ外部の手がかりというと、身振り手振りや表情などの実際上はメッセージの一部と見なした方が良いものから、事前の用語説明などの地ならしなどもう少し長い時間をかけて評価した方が良さそうなものまで色々と考えられます。それらすべてをひっくるめて曖昧な「コミュニケーション能力」が成立している、と考えるのはそれほどおかしな話でもなさそうです。

しかし、ここではあえてもう一つ強い要因と考えれるものを提案したいと思います。それが「信頼」です。そもそも相手が話を聞く気になってくれるかどうか、ちょっと意味がわからなかったとしても放り出さずにちゃんと考えて理解に努めてくれるか、そもそも間違いを言う可能性が高いと見なされて批判的な聞き方をされてしまうか、それとも、それなりに妥当なことを言う可能性が高いと期待して好意的に聞いてくれるか、などの相手側の姿勢が、相手が正しくメッセージを咀嚼してくれるかどうかに大きく影響するはずです。その姿勢を、自らにとって都合が良い状態に持ってこられるかどうかは「信頼」によります。

では、その信頼はどのように蓄積されるのか?

一番素朴な解釈は、成功したコミュニケーションの蓄積が、その経路(パス)すなわち送信者であり受信者であるお互いの間の「信頼」を育てるというものです。つまり、正しいことを何度も言うと、正しいことを言いそうな奴に見えてくる、ということです。そして、正しいことを言いそうな奴のいうことは多分正しいという予断を持って受け止めてもらえるので、表現が多少拙くても好意的に解釈された結果、うまく伝わる、なんていうケースもでてくる。という良い流れが想定できます。

しかし、最近私はこれは必ずしも最も一般的な道筋でも、効率の良い方法でもないのではないか、と考えるようになりました。ようやく、本題です。

納得するから信頼するのではなく、信頼してるから納得する

相手の言ってることを正しい、と判断することに絶対的な基準はありません。各発言を評価するタイミングで、その時どれだけ相手を信頼しているかによって正しいと判定される確度は変わります。従って、仮に同じ内容の発言を積み上げて行くとしても初期値としての信頼に差があった場合、その蓄積スピード自体が違ってきてしまうことが予想されます。加速度的につみあがって差がつくわけですね。(信頼がすぐに飽和するようなものなのであれば、それは細かい差かもしれませんが、恐らくは違いますよね)

よく知られるいわゆる認知バイアスの一つに「ハロー(後光)効果」というものがあります。肩書きなどに目立った特徴があると、その特徴とは直接関係ない領域などでも高い評価を与えてしまう、という傾向のことです。ここでいう「信頼の初期値」の影響は、ハロー効果ことと言ってるのではないか、と考えられた方もいらっしゃるかもしれません。私も基本的にはそうだと考えています。さらに重要なのは、このよく知られた心理的傾向であるハロー効果が「直接関係のない領域」での特徴が、評価に繋がる、と定義付けられてる点です。つまり、信頼は今その瞬間語られているテーマとは無関係にも醸成されうるし、そのことの影響に名前まで付けられている、ということでもあるわけです。

話は少し脇にそれるのですが、機械学習などでは、手元のデータを学習させるにあたって、データを学習用とテスト用に分けるということがテクニックとして行われます。(分割の方法にも色々あるのですがそれには踏み込みません)。学習用のサブセットを使って学習したものが、残ったテスト用データを上手く処理できるかを見るわけですね。それがうまくいったのなら、現時点で手元にはない新しいデータに対しても上手く処理できると期待されるわけです。この時、学習用とテスト用の区分がテクニックによって恣意的に導入されたものである、ということが示唆的であるように思えます。

あるテーマについての対話をしている状況において、あるいはそこまで大仰な言い方をしなくても、ある分野の仕事をしている間の会話において、それぞれの発言にどれくらいの信憑性を前提するかという「信頼」は確かに都度微妙に増えたり減ったりします。それはその信頼についての評価対象であると同時に学習の対象でもあるからです。しかし、ハロー効果的なバイアスとして、つまりは前述の初期値として与えられた寄与分は、この都度の微妙な増減の対象ではないと考えられます。何故なら、それは目下のテーマや分野とは「直接関係ない」ものだからです

具体的な例を元に考えてみましょう。例えば、私には縁がありませんが、体育会系のコネ採用などが良い例かもしれません。スポーツにおける成果は仕事でのパフォーマンスとは基本的には独立していてると考える人が多いと思います。しかし、同じ経験を経た人からすれば、「信頼」を置きやすい。そのため、仕事上のコミュニケーションが不安定な状態においても、好意的に解釈をしてもらえる機会が増え、成功体験が積み上がりやすくなるという傾向は、あるかもしれません。そしてそれは、仕事の上での結果にも通じる効果を生み得るはずです。

そう考えると、その時問題となっている領域(ドメイン)の中で頑張ってコミュニケーションの成功を積み上げるよりも、前もってその外側で信頼されたり気に入られたりした方が結果的に得、という身も蓋もない結論が導かれるのではないでしょうか。「不良が子犬を助ける」ことで過剰に褒められて、普段から品行方正にしている生徒がモヤる、というテンプレートにも通じる構造です。真面目な人は、自分のコミュニケーション能力に疑問を持つことがあまりないですし(やるべきことをちゃんとやる、という指向が強く、文脈から外れた変わったことをすることがないので、複雑なメッセージを必要とすることが少ない)、周囲もそう指摘しにくいことが多いのではないかと思います。真面目にやっているのにいまひとつ評価が伸びない、という人は、この辺りの評価システムを見据えて少し広い視野での点数稼ぎを狙ってみると良いのではないかと思います。(ま、そういう人は、こういう技術的な点数稼ぎを嫌いがち、ってイメージもあるんですけどね)

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