懐疑的な冷笑家による「説明」論

説明をする、というのは本来的に不遜な行為です。自説の正しさを暗黙に仮定しています。正しい、あるいは少なくとも妥当ではあるからこそ、その詳細を知れば、十分な理性をもつ相手なら理解出来るはずだ、と考えるから「説明」をするわけです。(これが、説得をする、であれば自分の意見が正しいかどうかは関係なく、同調なり同意なりを引き出せば良いとなるので、そのような意味での不遜さはなくなります。)

しかも、そもそも「自分の説」というものが、それほど確固たる実体として存在するとは限りません。説明のために言葉を紡げば、そこで語られるフレーズによっても自身がそのアイディアに対して持っているイメージは影響を受け変質していくこともありそうです。また、それを言葉にした時、使われた言葉一つ一つの意味を厳密に定義することは難しいでしょうし、恐らくは無駄ですらあります。説明する側もされる側も辞書的な定義から逸脱した理解をしている可能性は大いにありますし、個人の経験や偏った知識に基づいたあまり一般的ではない解釈をしている可能性もあります。そのような場合に、説明する側が持つ定義だけを特権的に扱う理由はありません。そう考えると、「正しい説明」などというものはこの世に存在し得ないものである気がしてきます。

しかし、現実の感覚として、あるいは職業上の都合から考えても、それでは「説明」という行為が完全な不可能事であり挑戦する価値のない行動なのかというと、もちろん、そんなことはありません。我々は日々説明を行っていますし、それには上手い説明もあれば下手な説明もある、と考えることは極めて自然な態度であると思えます。実際、私も仕事の一環として「説明」をすることは多々ありますし、それが私の仕事の主要な要素であると考えられているふしすらあります。このような、「わかりにくい」ことをくどくどと述べ立てたがる人間は、その時点で説明には不向きなのではないか、と思われるのではないかと思いますし、これまで書いてきた記事も決してわかりやすいものではなかったでしょうから、その意見には本来返す言葉もありません。事実、できればあまりわかりやすいことを言ったり書いたりはしたくないという(人によってはまったく理解不能かもしれない)感情を常に抱いています。それでも四半世紀近く、説明能力を問われるような仕事を続けてきているわけです。今回、「どのようにその折り合いをつけているのか?」という質問を受けたので、それに対する回答を捻りだしてみたいと思います。(「屈託が豊富な人のためのコミュニケーション技術」的にどこかでまとめたい気もします)


説明するとはどういう活動か

これはさしたる権威的根拠のある話でもないのですが、個人的に説明行為というものは、「説明をしている側が認識している説明対象の概念のモデルを、説明を受ける側の認識の中で再現する」ことである、と考えています。ここでいうモデルとは、独立性が高い個別の概念の定義よりも諸概念の関係性(の概念)に重きが置かれたものになります。従って、個々の概念については未知であっても、近い関係性にある別の概念同士の結びつきを既に知っているのであれば、「喩え話」としてその既知のモデルに言及することで、効率良く再現にまで辿り着く……なんてことが期待できたりします。実際には厳密な意味で「独立した個別の概念」なんていうものはなくて、その定義を深掘りしようとすれば、その説明はまた一段下のレベルでの諸概念の関係性でなされることになるわけで、自分で書いていても切れ味の良い定義にはなっていないと思うのですが、個人的には説明というのはそのような活動であると考えています。

「喩え話」という具体的なテクニックについてだけ言及してしまいましたが、(たとえ厳密とは言えなくても)語の定義を再確認するなど、この説明という活動を効率よく行うための技術には色々あると思います。が、ここではそういった技術論には深く立ちいりません。(とりあえず、友人の名著へのリンクだけ貼っておきます。最近、続編(?)が出たのでステマするならそっちという気もしますけど)

説明の良し悪しをどう考えるか

説明が上手い、とか、説明が下手、という形で個人の能力を評価することがあります。しかし、ある人間の認識の中にある「特定の概念同士の関係性モデル」を別の人間の認識の中で再現する、というのを説明の定義とした場合、その人間同士が予め備えている既知の概念同士に大きなギャップがあればその説明は困難になり、逆にギャップが無ければその説明は容易なものとなることが(それこそ容易に)想像されます。もってまわった言い回しになってしまいましたが、要するに専門家同士ではすぐに通じる話も門外漢には難しい、とか、一緒に生活して文脈の共有が進んでいる人間同士なら指示語だけでコミュニケーションが成り立つ、というような当たり前の話です。伝えるべきコンテンツ(説明されるべき概念とその関係性)それ自体が高度であるとか複雑であるということよりも、相手がすでにどれくらい近い認識を持っているかによって難易度が変わるということです。

さらに言うと、相手の既存の知識の多寡や知的能力に依存する、というだけの話ではありません。先述の喩え話のように、説明者側が提示した喩えに対して、受け手側が既存の知識を「積極的に当てはめてみる」ことで、この再現活動は先へ進む、という実態があります。説明の内容を聞きながら、自身が持っている概念を当てはめて、矛盾がありそうなら質問でただしたり、別の概念を当てはめてみたり、という積極的にトライアルアンドエラーを繰り返すことでようやくそれらしい像を結ぶ、ということも珍しくありません。つまり、受け手側がそれ相応の注意関心を持ち認知リソースを費やすことで、説明は一定の成果に辿り着くわけです。

説明のゴールをどう考えるか

しかし、相手の頭の中を直接覗くことはできませんし、(厳密には自分の頭の中の方も直接は見られないわけですから)、説明をする側と受ける側の両方のモデルの一致度を客観的に測る方法はありません。となると、何をゴールとして説明行為を行えばよいのでしょうか。

こと職業として説明を行うとするのであれば、その説明を完遂しなければプロフェッショナルとして仕事をしたとは言えなくなってしまうわけで、これは深刻な問題です。不可能事を掲げたまま仕事をするのは、言ってみれば詐欺行為の類いになるわけですので。(まあ、コンサルティングは詐欺と紙一重と思われ勝ちな仕事ですが)

そして、これはもうほとんど詐欺まがいと言われかねないのですが、個人的にこのゴールの設定は、「相手にわかった気になってもらう」以上はありえないのではないかと思っています。何しろ客観的な指標がないので。

「わかった気」の永続性

その説明に嘘があろうとなかろうと、ある程度複雑なモデルを、相手の中にある既知の概念の組合せで再現することができれば、「わかった気」になってもらうことは可能です。ただ、話が複雑過ぎたり、曖昧な表現を使っていたり、内容が嘘で現実世界の知識と矛盾したりすると、その「わかった気」はすぐに雲散霧消してしまいます。こうなると、仕事としての説明が成功したとは言いにくいです。つまり、より正確に記述するのであれば、職業的説明とは「相手にそれなりの期間にわたり、わかった気でいつづけてもらう」ことである、ということになります。

では、そのような永続性のある「わかった気」というのはどのように実現されるのでしょうか? これは、今やお互いの中に生じているであろう当該モデルについての会話を繰り返すしかありません。ここでも、喩え話が有効になります。いや、喩え、よりも、例示の方が適切かもしれません。お互いがそのモデルを使って具体的な話をすることで、相互の理解に齟齬がないことを繰り返し確認することが、この「わかった気」を生きながらえさせ固定化する(唯一の、である保証はありませんが)方法になります。

お互いの理解の齟齬がないことを確認するとか、逆にあるかもしれない差異をあぶり出す、という対話は、お互いがわかっていることが当たり前であるような説明不要の状況ではとてもやりにくいものです。コミュニケーションの効率が良いとされている環境で、いわゆる心理的安全性が問題になるのはこのような要素が絡んでいると思うのですが、話が発散してしまうので、今回はここまでにしたいと思います。

まとめ

  • 説明とは、自分の中の概念のモデルを相手の中にも再現しようとすること

  • 説明がうまく行くかは相手の関心度合(聞く気)に依存する

  • 説明がうまく行ったかどうかを確認する客観的で確実な方法は無い

  • だから、せいぜい「わかった気」になってもらうくらいしか狙えない

  • 「わかった気」でいつづけてもらうためには、お互い例示を繰り返すしかない


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