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震災直後、その時の気持ち (第2話)


【前回の記事】

2011年3月11日、東日本大震災は起こった。茨城出身、当時は東京で生活していた私はほとんど被害を受けずにすんだ。それは家族や親戚、友人も同様、職場もその日のうちから通常営業ができていて、安心感すら感じ始めていた。

しかし、テレビから流れるニュースは受け入れ難いほど悲惨な状況を伝えていた。それを見ているとやがて絶望感を感じた。

安心感と絶望感、解離したこの二つの感情がなぜ私にはあったのだろう。この日をきっかけに私の生き方は変わってきた。その後に色々と経験しひと段落した今、やっと言葉に出来る様になった。

社会性を軸に伝えていこうと思う。

https://note.com/yumiko_n/n/n6b64bb3e6650

【震災当時、営業終了時】

私が働いていたのは代々木にある小さなバー、お店の内装は暖色系で落ち着いた雰囲気だ。カウンター席が4つ、テーブル席が15席ほど。スタッフは私一人でワイシャツにロングサロンと言うユニフォーム。よくあるスタイルのバーだ。

営業時間はいつもであれば17時〜26時までだったが、震災当日は少し早く25時くらいに閉店した。ちょうどその頃、都心の電車が動き始めた。まずは都営大江戸線。1番新しい路線で且つ最も地下深く通っている路線だったため、地震の揺れが少なくいち早く復旧できたのだろう。

私たちは昼下がりに始まった混乱に、日本は一体どうなってしまうんだろうと不安を覚えていたから、電車が動き出したニュースを見て東京が回復し始めてるんだと胸を撫で下ろした。このニュースはテレビよりも少しだけ早くお客さんが教えてくれた。代々木は大江戸線の停車駅であるからだ。

運転再開は大江戸線になるだろうと噂されていたので代々木駅でその時を待つ人が沢山いたが、地下鉄が動き出すと代々木駅前は一見いつもと変わらない様子になった。

電車も動き出した事だし、今日のところはそろそろ閉めて帰ろうか。こんな雰囲気でその日の営業は終了した。当然、売上は低かった。

【帰り道】

帰り道はとにかく怖かった。また大きな地震が来るかもしれない。私はこのまま一人暮らしの部屋に戻る事ができず、朝までやってる行きつけのバーに直行した。

そこにはいつものメンツが揃っていて、なんだか心強かった。不安の根本が解決するわけではなかったが、こんな時でも集まれるコミュニティがあって良かったと思った。

その後はいつも通りにジャックソーダを数杯飲んで酔っ払い、朝日を浴びながら帰宅して化粧も落とさず寝たんだと思う。今から9年前なので26歳だった。

これが私の震災当日の行動だった。

【当日の心理状況】

重複にはなるが、当日の心の変化を中心にざっくりとまとめてみようと思う。

まず地震発生直後は直感的に大変な事が起こったに違いない!と焦った。遠方に住む家族と連絡を取りつつ、お店に向かった。ニュースを30分くらいは見ただろうか。でも、まだ状況把握はできていない状況で、無意識にお店がどうなっているのかを優先にしていた。まぁ一人暮らしの家から出ないという選択肢はそもそもなかった。

お店に着くと地震の被害は全く無かった。それを見て良かった!とほっとはした。ほっとはしたものの、こんな時にも私は仕事をしなければいけないのだろうか?というフラストレーションも同時に生まれていた。

ちなみにお店のオーナーからの指示は通常通り営業をするようにとのことだった。震災発生時、オーナーはたまたま車で移動していたのだが、発生直後に都内の交通状況は完全麻痺し大渋滞が起こった。そのため車は乗り捨てて、とりあえず歩いてお店に向かうとのことだ。到着には5時間ぐらいはかかるだろう。

オーナーは日本で今なにが起こっているのか、ニュースを見る事ができずに全く把握していなかった。だからきっと通常営業をとの指示をしたんだろうとその時は感じていた。

時が経つにつれて被害状況が分かっていく。その悲惨な状態を見ていて、なぜ今仕事をしなきゃいけないんだというフラストレーションは余計に溜まっていった。もちろんその事は口に出さなかった。

姉妹店のジャズバーには当日に出演予定のミュージシャンがぶじに到着し始め、お客さんも数人だが来てくださる方がいた。大丈夫だった?怪我もなくて良かったね!などのお互いへの安否確認が始まる。私のお店の方にも来てくれる方もいて、お客さんの顔を見て会話をするごとに、安心感が生まれてきた。

しかしテレビのニュースは益々ひどくなる状況を報道していた。死亡者と行方不明者の数がどんどん増えていく。生々しい映像が流れ、あまりのショックに胸が詰まって、賄いが喉を通らなかった。テレビに映っているのは顔も名前も知らない方たちだけど、同じ日本で大きさの悲しみが生まれていた。残酷な状況に絶望した。

すっかり夜になってくると帰宅難民たちが食べ物やトイレ、あと情報を求めて来店された。この方達はお店の常連さんではなく、初めてお店に来られた方たちだった。

もちろんトイレ使って下さい!ニュースも見ていって下さい!

通常では生まれないニーズなのだが、役にたててるようで気持ち良かった。数時間前までお店を開けることへの抵抗感があったが、それはいつの間にか忘れて、お店の存在が誰かに貢献出来たこへの満足感に変わっていた。

そして練馬からわざわざお店を心配して、来てくれた常連さん。有り難かった!

12時前後に電車は動き出し、東京は回復し始めた。閉店し1人になると急に心細くなって、足早に行きつけのバーに直行した。そこにはいつものメンバーがいて安心した。率直に、行きつけのこのお店が開いてて助かった。それはそのまま、今日お店を開けた自分自身への肯定感になった。

私自身が全くの無傷で家族も無事だったことが大前提なのだが、最終的にはお店を開けて良かったと思いつつ、長かった1日が終わった。

今、書いていて思い出した。この数ヶ月前に仙台に嫁いだ元同僚(姉妹店のジャズバーで働いていた)がいた。その子は妊娠もしていた。やっと夜になって無事だという連絡が来て、皆で良かったーと言い合った。こんな事もあったな。

【今となってみれば】

震災当日、複雑に心境の変化を体験した。皆の無事を喜んで良いのか、日本の痛みを悲しむべきなのか、矛盾しているような感情が存在していた。今となってみれば、個人的な関わりを持つ人と一切持たない人たちに対しての感情ってだけ。矛盾していようが両方とも持っていて良いものだ。でもまだこの時は単に私の感情として捉えていて、解離した心をうまく処理できなかった。

この時、私は個人的な関わりを一切持たない人たちに対して強い共感をもった。だから胸がえぐられるように痛かったわけだが、後にこの痛みが私の中の社会性であったと気づく時がくる。

【震災、後日】

津波警報が消え、余震が止まり、火事が収まり…ひとまず第一次の被害の拡大は収まると、ニュースは速報ばかりではなく、被害を受けた方々を励ますような報道や勇気ある行動を起こした人の話などを伝え始めた。

その中の一つに、今でも覚えているものがあった。とある飲食店が震災発生直後、店先にテーブルを出しその上に綺麗な水が入ったヤカンと使い捨てコップを用意した。ご自由にどうぞと張り紙をして、お店の前を通る帰宅困難者に飲み水を提供していたという報道だ。

これを見た瞬間、ハッとした。あの時にこの発想は全く思いつかなかった。そして私は、あの日の夕方にぞろぞろと歩いて帰る人たちの姿を思い出していた。私も同じようにお水を配ることができた。すぐにご飯を炊いておにぎりを作っていたら、誰かに配れたかもしれない。明らかに私はそのチャンスを逃していたと気づき、はっきりと後悔した。あの日の夕方、私はなんで働かなきゃいけないんだ!とすら感じていたんだ。

このニュースを見て一つの答えが出た。私は与える側の人間になりたいんだと自覚をした。そして私は、あの時自分に何ができたんだろうと考え始めた。

つづく。








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