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雑談・喪失の共有・参加・社会への信頼回復

昨夜は横浜コミュニティカフェネットワーク設立10周年記念「横浜コミュニティカフェフォーラム」でした。プログラム詳細はこちら

私は第二部で世話人の一人として登壇したのですが、第二部のテーマはコミュニティカフェの価値・可能性についてでした。

私からはまずこの4つの価値と1つの可能性について話しました。これは「すべてのコミュニティカフェの価値や可能性」について書いているのではありません。私にとっての自分たちがつくる場の価値はどういうものでしょう?と問われたときにぱっとその場で出てきたものがたまたまこれだったというくらいなので、そのように捉えていただければと思います。(家に帰りながら他にもあれもこれもあるなと思うのですが)

コミュニティカフェの価値
1.雑談の場であること
2.喪失の共有の場であること
3.参加の場であること
4.社会への信頼をとりもどす場であること

可能性
なんとかなるクッションになること

コミュニティカフェの価値について

1.雑談の場であること

何がどう支援できるかというモードにスイッチが入ってしまうことがあります。でも中には医療や福祉に既にいろんな方に相談でつながっている方もいる。その方にとっての支援をあれこれこの場で考え実践することはよいが、時にはそれはその方にとっての「支援される」以外の側面で社会とつながっている場を奪いかねない。雑談の場であることは実はとても難しくとても大事なこと。そんなことを以前とある方にご注意をいただき、ずっとその言葉について考え続けています。

その通りでありつつ、やっぱり放っておけないとか、素人とはわかっていつつあの情報をお伝えできないか、とかいろいろと感情が湧いてきます。でも都度「よかれ」と思っていることが自分自身がもやもやっとしていることを解消したいが故のことではないか、何が役に立ちたいという自分よがりの感情になってないか、そして何より雑談の場であることのこのカフェの価値をその方から奪っていないかと止まり問うようになりました。

また、「つなげる」ということが重んじられる世界ですが「つなげられてしまう」と思うと案外話せないこともあります。支援計画も、支援の方向性もない、個人情報や背景ももらわない、でもだからこそ居られる場もまた一つのありようなのではないかと思います。これが「良くしようとするのはやめたほうがよい」と私たちがクレドで書いてあるポイントにあるところにつながっています。ちなみにこの良くしようとするのはやめたほうがよいという言葉は、こちらのからいただいている言葉です。


こまちぷらす クレド
こまちぷらすのクレド 「良くしようとするのはやめたほうがよい」は下段、右から2つ目。


2.喪失の共有の場であること

ライフステージの変化のときに場に足を運ぶ方が多いカフェを運営しています。出産、育児、子どものこと、退職、復職(前)、親の介護必要になる等様々ですが、そのときにはいろんな「喪失」を経験します。喪失といっても誰かの「存在」だけでなく、自分のアイデンティティ(例:母ではない自分をどこかに置いてきぼりにしてきた等)、できていきたことができなくなっている、信じてきたことが違うと揺らぎはじめてきた、等いろんな喪失があります。

最初はなんとか忙しさでごまかそうとしたり、ないものとして蓋をしてみたり、動いてなんとか見て見ぬふりというステージがありますが、段々とその蓋をしてきた部分が膿んだり溢れたり・・・感情爆発したり意味なく空虚な気持ちになったり涙が出たり、埋めたい何かがあるけど何をどう埋めたいかが自分でもわからない、その途方にくれたような気持ちになります。正体がわからないものとずっと同居するのはなかなか難しいですね。

そうしたときに、元気を出して!みたいに言われて元気が出せれば簡単なのですが、そううまくいきません。

行動することや動くことが推奨される世の中ですが、誰かの経験を聞いて私もそういうことだったのかと捉えてみたり、自分の状況や感情に名前がつけられる言葉を見つけたりする時間は何もしてないような時間に見えるため評価されづらいですが、とても大事なことなんだよなあとこの場にいると常々思います。

そこに会話も必要なく、似た経験をしてきた人とただ同じ空間にいるだけとか、話を聞くだけとか一方方向もあり、というのもいいですね。

そういういろんな喪失をただただ誰かと空間や時間を共有するだけの場、それって本当に大事だよねって言っている場がやはり地域に一つや二つあってもいいんじゃないかなと思います。

「喪失の共有」は堀田聰子先生が訳したコンパッション都市の本を読んで、そういうことだったのかと腑に落ちたときに発見した言葉です。堀田先生日本に持ってきてくださりありがとうございます。

3.参加の場


カフェと参加については自分自身が「参加する」ことによってすごく元気をもらってきたのでとっても思うことがたくさんあります。こまちのコア価値に近いキーワードです。

何がやりたいかわからないけど何かをしたいという方がこまちでもボランティア登録してくださる方々の中でも6-7割いらっしゃいますが、私自身もそうでしたし、無理に「これをしたい」がなくていいんじゃないかと思っています。活動にいろんな穴がぽこぽことあいていて、そこを見ながらここだったら今の私が何かできるかな、と「ぽこ」っと自分の力を出してみたり、あの穴に試しにはめてみたりしているうちに、自分のアメーバのような姿形が変わってくる。そのいろんな活動のヘッコミがあって、新たな自分に出会い直していく。

いろんな方のいろんな具合にフィットすることがカフェの魅力なんじゃないかと思います。(当然ながらカフェそのものも特性のある生き物のような存在なので、すべてにはフィットするヘッコミはあるわけではないです)

『緩やかな絆というのは与えられるものではなくて、自分で自在にデザインできる(能動的に、主体的に)が大事』『接続と非接続を自分で選べるということも大事』ということを以前の投稿で書きました。その参加は主体は必ずその参加する側にあって、つながるもつながらないも参加するもしないも必ず相手が自分で、能動的に、主体的に安心して選べることが大事であるということも付け加えておきたいです。

下は、2022年にこまちパートナーの方々向けの「パートナーぷらす会」での講演で使ったスライドです。

実際の私はこんな風にもにょもにょしている
上で記述したことのイメージはこんな感じ
欠けている部分を突き付けられることが多いけど、本当にそれは何のために埋めるんだろう。




4.社会への信頼を取り戻す


針で互いの心をちくちく刺し合うような言葉に溢れている社会ですが、そういう言葉を見ていると人って社会ってなんて冷たいんだろうと思いがちですが、リアルな場空間にいるとあたたかさに触れることのほうがよっぽど多いです。こまちに関わるうちに、『人って、社会って捨てたもんじゃないな』って思えるようになったという言葉を、以前とあるこまちパートナーの方からいただいたときに、その言葉を聞きながらじーんとしてしまって時が止まったんじゃないかという感覚になりました。

そんな風に感じる場って確かに世の中に少ないですが、リアルな人間と心を通わす場面が多いと、ふっと自分の中の余白スペースが増えるんだろうなと思います。そういうところには、いろんな視点が入りやすくなるし、頑固に「私はこうなんだ!」と頑なになっていた部分が少し溶けていきやすい。

このフォーラムでも「地域自治の要」という言葉を港南台タウンカフェの齋藤さんがおっしゃっていましたが、そういう視点から考えてもまずはこういう場で社会への信頼、人への信頼をもったり、こういう余白ができていくことがとても大事なんだろうなと思いました。


こまちパートナーの方の言葉を図式化したもの。

コミュニティカフェの可能性について


最後に可能性について話したことをここでまとめておきます

なんとかなるクッション

コミュニティカフェは「なんとかなるクッション」という可能性があるんじゃないかと思います。


よく講演でもお話しする「なんとかなるクッション」

上のフェーズ1は昔の「村」のような感じです。ザンビアにいる子育て中の母親の声を国際NGOの方と連携してとってきたときにもこのフェーズ1のふくよかなコミュニティのクッションを感じました。

ザンビアの声一部 (詳しくは以前のこちらの記事参照)

「困った時には兄弟家族に頼っている。」
「保育園はないけど夫と協力しあってみている。」
「村全体が子どもの居場所」
「こどもの放課後の居場所がないという意味が分からない」
「暗くなったら家に帰ってくるし、近所の人が大体どこにいるか知っている」
「何故家にひきこもることが悪いのか」

でも制度の充実や、都市部を中心として、制度サービスの充実が図られていき、それによって救われる命や支援が必要な人にしっかり支援が届くようになる一方で、コミュニティでの助け合いが薄くなりがちです。(フェーズ2)
そうしたときに、フェーズ1にはもはやもう一度戻るのはとても小さな単位や少人数のコミュニティや団地、でない限りはなかなか難しく、ある程度の規模であれば、フェーズ3のような状態に移行が必要です。

そのときに、コミュニティカフェの存在は、その小さなクッションをいろんな形でつくったり、参加者が別のところにクッションつくったりするのを応援したり、互いに支え合ったり、一緒にお祭りしたり、プロジェクト組んだり・・そんなことをしているときに、ちょっとこういうことがあるんだけどなんとかならないかな?というミニ相談があればあそこにあの人いたよー、聞いてみようか?くらいの軽い感じで2-3人に電話か連絡をすればなんとかなるということが結構あります。これはYCCNの世話人でシェアリーカフェの岩室さんもフォーラムの中でおっしゃっていました。

まちの町内会長さんや商店会長さんはもちろん、まちの美容院やいろんな商店もこうした役割を自然と日々果たしているのも身近で見てきています。福祉とかそういうくくりは関係なく、いろんな人がいろんなところで想いをもって動いている人たちがいざというときに、そうした何かクッションの役割を果たしていく。そのためには、交差点としての場が必要でその地域にあるいくつかの交差点の一つになりうるのがコミュニティカフェなのかなと思います。

他キーワード


フォーラムででてきた他皆さんのキーワードです。

日常の延長にある非日常
入口となる間口の広さ
民間ならではの地域自治の要
関係性を紡いでいくプロセス
夢をかなえる場所
まちにつながる
意思決定のプロセス


最後にメッセージ


最後に、これから何かをしようとしている方へのメッセージをというリクエストがあり、「カオスを楽しむ」話をしました。

こちらのカオスについての記事でも以前書きましたが


カオスと危うさをいかに大事にするか」

運営上安定を求めたくなる気持ちとそのカオスならではの場の魅力

足を運ぶ回数でもなく、その人自身の社交性にも関係なく、本当に「偶然」としかいいようのないような出会いの場面を数々とカフェで見てきましたが、その偶然は何もしないで生まれるわけではありません。適度なカオスをつくりつづけられていてこそ、居場所はそんな偶然を生み続けられるのでしょう。私はそのカオスに耐えられるだろうか。耐えられているだろうか。
いつも試されているような気になります。

https://note.com/yumiko_mori/n/n6f071783e7d5

混とんとしていて曖昧で定義しづらいことに溢れている場のカオス具合を、もはや楽しむ!そんなことを言ってられるときと言ってられないときがありますが(笑)いろんな仲間がいて助けてくださる方がいてくださって、そのいろんな人とカオスを味わいその人たちのあたたかさと出会える喜びはカオスとセットであるなと思います。