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「つながりを豊かにゆらぐ」

昨日は第10回とつかフューチャーセッション。

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2016年からはじめたこの会、これまで述べ約350人の方に参加いただきました。毎回ゲストスピーカーをお呼びして、ワークショップを通して
まち中のいろんな人が持っている感情に触れながら、今一人一人ができることを考える場をつくってきました。

この場でやってきたこと

このとつかフューチャーセッションは、課題を解決することはできなくてもいいから、まずは課題をみんなで見ること、自分たちに今ないことだけでなく、今あること(もしくは過去の人たちがつくってきてくれたこと)に気づくこと、そんなことを大事に開催してきました。
また、時には海外の声にも触れて(ザンビアやデンマークやイスラエルの声もこれまで拾ってきました)、自分自身がつくってきた当たり前に気づいたり、消費者になることで失ってきたことを知ること。
いろんな嬉しいこと悲しいことを感じている人を想像する場。
そして今私は何ができるのかと立ち止まって考える時間。
そんな場と時間として、開催してきました。

昨日はゲストスピーカーとして、白梅学園大学教授の長谷川俊雄教授(以下、親しみをこめて長谷川さん)
をお招きしたのですが先生のおかげで会場の中で参加者のみなさんと一緒に気づけたことが多く、深く静かな感動を覚えたのでここに備忘録として書いておきたいと思います。

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「つながり」と「つながりづらさ」

今回のとつかフューチャーセッションはそもそも
「つながり」と「つながりづらさ」を考える会として、開催しました。
このテーマにまつわるアンケートを事前に実施し可視化したカード(葉っぱ)を使いながら参加者と「つながり」もしくは「つながりづらさ」について今思っていることを深めました。

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長谷川さんのお話は、
「関わることは双方向性だ」というお話しから始まりました。
関りというと、ぱっとイメージするのは→が一つの方向に感じますが
実は関わった時点で双方向に矢印が伸びている。
「振り回す」と「振り回される」も「信じる」と「信じられる」も
「期待する」も「期待される」も。出会ってしまったときから「関わり」は始まっていて、そのいろんな人たちとの関りの中で自分自身と出会っていきます。

そうでした、そもそも、とつかフューチャーセッションを始めようと思ったのもその「双方向性」がきっかけでした。
当時認知症カフェをこまちカフェの中で開催をしていたのですが、そのときの参加者が
『ベビーカーを押すお母さんたちが我がもののように
エレベーターを占拠している。車椅子にのせたご年配の方を
のせてそれを押している私からすると、ベビーカーは
たためるけど車椅子はたためない。子育てにやさしいのは大事だけど
お母さんたちのモラルはどうなのか』
とお話しするお姿を見たときに
色々と感じたことも大きく影響していたのも思い出しました。
子育てに関わる人を増やしたいと思ったときに、それは
一方方向ではなく双方向でこそ成り立つ。
子育て中の人たちも同じように高齢の方含め、様々な街中の人たちの感じていること困っていることに触れて「関わる側」になるという、その双方向が
あってこそ、子育てはしやすくなる。そこから、テーマも「高齢」「障害」というテーマを毎年とりあげながらすすめてきた4年間でした。そんなスタートを思い出す時間にもなりました。

「関わることは本質と出会う事」


長谷川さんはその「関わる」ということを本質と出会うことでもあり、
関わる側も関わられる側も両者人間としての成長と成熟を形作ると
お話しされてました。それこそ「生きること」そのものではないか、と。
確かに、まちづくりというとやたらと人の主体性、その必要性が語られますが、そういった一人一人の成熟と成長とそこへの喜びがまずそこにあるということからスタートすることですね。

また、つながりという言葉の前に「絆」という言葉についてもお話がありました。強い絆ということについて、憧れや幻想に近いものがあるけれども、
その幻想をみているから、手に入らない不安がでてくる、と。
「家族というのも本来はいろんな形があるし、変わるし、流動的。それなのに一つのイメージで縛っているのは自分自身。それでいて、自分がいけないのではないか相手がいけないのではないかと、そのイメージから違うものが
出てくると考えてしまう。そもそもその過剰に認識してしまう事がおかしいこと。大事にするといいながら、相手を支配していないか。強い絆への幻想を抱くあまり、自分と相手の境界線も混乱してしまうのではないか。」
そんな問題提起も長谷川さんからありました。

確かに、まわりを見渡しても、いろんな人に出会うことがありますが
静かな「支配」も案外身近にあります。家族という密接な関係の中だからこそその支配が起きてくる。「おまえは専業主婦だから、働いていないから、社会を知らないからそう言えるんだよ」という言葉を発する夫がいるというお話しも長谷川さんからありました。
経済性の優位が自分にあることが安心感にもなり、関係性が壊れないことを前提にしているからそんな言葉が言えてしまう。
それを日々耳にする女性側も、「そうなのかもしれない」と思うようになり、この強い絆を失ったら自分の行き場や生きていく術がないという恐怖も重なり言い返せなくなり、とことん自己肯定感がだださがりになる日々になる。
支配の関係の先には静かなDVがあって、音をたてないくらい静かだけど心を
蝕むし、それに縛られ生きているたくさんの女性たちが今まだそう遠くないところにたくさんいます。そういったことをつくる根源には、「崩れないだろう」という強い絆像、幻想、がある。
強い絆が一つしかない、という状況が孤立を生むということも、今日の
長谷川さんからのお話しでのメッセージでした。

だからこその緩やかな絆

だからこそ、緩やかな絆を複数もつことがとても大事。
長谷川さんは、こまちぷらすの活動は
「子育てというエピソードを通してweak ties(緩やかな絆)を
つくる活動をしているのですね」と表現してくださいました。
緩やかな絆というのは与えられるものではなくて、
自分で自在にデザインできる(能動的に、主体的に)が大事という話が
大きなメッセージとしてあったのですが、その中で接続と非接続を自分で選べるということも大事というポイントがありました。

居場所をもっている人たちの会話のなかで
最近あの方こなくなったね、と心配や不安な表情で語られることもありますが、そういった場に通わなくなる時期やそうやって次の場やステージを
見つけることはよいことです。
再接続「させよう」なんて思った時にはそこにはもう「これがいい」という支配の関係、暴力がある。でも、その人たちを思っている私たちがいること自体や気になって声かけたり連絡したりすること自体は否定することでもない。この絶妙な感じ、塩梅はなかなか言語化できるものではありませんが、
長谷川さんはそれを「接続と非接続を自分で選べることが大事」という言葉で表現をしてくださいました。
互いに、時に声を聞きたくなる、会いたくなる存在であることは変わりない。でも行くか行かないのか、選ぶのはあくまでも「私」。その人自身。やさしい言葉でそういったことを語ってくださった時間でした。

つながりを失うということはどういうことか

また、つながりを失う事ということはどういうことか、
という話もありました。つながる相手を失うと言うことではなく、
自分や自己とのつながりを失うことだというお話も印象的でした。

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(投影スライド一部。長谷川さん掲載許可ありがとうございます)


「そういうときには、他者や組織へ責任転嫁をしたくなる。自分がわからなくなり、疲れ果てる。こころを閉ざして、達成感もなくなり意欲も下がる。
被害的になり悲観的になる。。。」
そういうタイミングやそういう状況になる人とも私もよく出会いますが、
外からどう働きかけても難しい場合が多々あります。
「その人自身の自己一致の次元。「すべき」「ねばならぬ」がその人自身を
支配していて「傷つきたくない」という気持ちで心がいっぱい。」
思考の癖もあってなかなかそれは変わるモノでもない。
その人自身のなかですりあわさっていくのを待つしかないですが
数か月とかいう単位じゃなくて数年単位のことだなぁと(私はまだ知らない次元ですが数十年単位の人もいるのだと)思います。
そういったことも長谷川さんのスライドを読みながら思い出していました。「「待ち続ける」がないと、つながるは壊れる」、そんな言葉でも表現されていてそういったスタンスや考え方は居場所においても、親子関係や夫婦関係、様々な関係においてとてもとても、大事にしたいものです。

「わたし」と「自己」が一致していくために

そこからどう自分と私が一致していくの?というヒントとして
長谷川さんは
・共感を意識すること
・優先順位にを大切にすること
・「こだわり」と「とらわれ」の違いがわかること
・心地よさ・楽しさを判断基準にすること
・たのしい・うれしい・おいしいを大切にすること
・「優劣」「正誤」ではなく「違い」として受け止めること
・他者優先から自己優先すること
あきらめること

などいろんなヒントとなる言葉を残してくれました。
中でも最後の
「あきらめる」ということは、「あきらかにみる」ということでもあって、失う事を取り戻そうとするのではなく残ったものからまたはじまるという意味も含む言葉だというお話しもくださいました。そういった視点で諦めるという言葉を見たことがなかったのでとても新鮮でした。


続きは次回に。