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次にもう一つの私のこと

 次に、もう一つの私の顔、介護者というペルソナについて。
 現在83歳になる母が64歳の時、アルツハイマー型認知症と診断された。
その頃の私は、ヘルパーステーションでサービス提供責任者という仕事をしていた。
母と同居している兄夫婦より連絡があった
「お母さんが昨日旅行に行ったことも忘れてるのよ」「病院に行こうって言うけど、嫌がっていかんのよ」
 私は慌てて仕事を休み。嫌がる母を連れて病院受診をした。
検査の結果、アルツハイマー型認知症と診断され、服薬療法を開始することとなった。
 病院の帰りに2人で、母の好きな鰻屋に寄って食事をした。
目の前でおいしそうに鰻を食べる母がアルツハイマー型認知症。
私と普通の会話を交わしている。母がアルツハイマー型認知症。
今こうやって、おいしそうに食事をしているけれども、いつかは鰻が好きな事も忘れるどころか、食べることも忘れ、飲み込むことも忘れ、私のことも忘れ、何もできなくなって、ベッド上で動くこともできなくなる。その姿を思い描いていた。

 その後、母はアリセプトを飲みながら何とか日常生活を送っていた。薬が合っていたらしく、一時期よりは記憶の保持ができるようになっていた。

それでも徐々に症状が悪化していき、夜中に私に頻回に電話をかけてきたり、作る料理の味も徐々に怪しいものへとなっていった。

 その頃、私はすでにケアマネとしての仕事を始めていたが、母の物忘れに伴う感情、失禁等に接するたびに、私の方が感情のコントロールができず、母を泣かせてしまうこと、母を怒らせてしまうこと、とにかく関係性がうまくいかない時期が続いた。
 仕事ならうまく対応ができるのに、母と接すると同じことを2回言われただけでもかちんときてしまう。
そんな自分が情けなく、実家からの帰り道、車の中でよく泣いていた。私が怒らせてしまった母に、私が泣かせてしまった母に、私に謝ってしまう母にごめんね、ごめんねと車の中で何回も謝った。

そんな葛藤の時期を過ぎ、母の認知が進んでいき、主介護者だった父が他界。
母は一昨年施設へと入居した。

 今の母は、私の事はわかるようだが、なかなか名前が出てくる事は無い。
新型コロナウィルスの流行もあり、施設へ行くこともできず、会いに行っても施設のガラス越しの面会となっている。

 現在、母がどんな思いで日々を送っているのか、今の私にはわからない。
願うなら、私のこともわからなくてもいいから、毎日穏やかな気持ちで夜を迎え、朝日とともに気持ちよく目覚めていてほしい。
この気持ちは、離れてしまったからこそ思える気持ちかもしれない。
穏やかに過ごしてほしいと。

介護業界で、利用者だけでなく、介護者を支援しながら、自らも介護者となっていた。それがもう一つの私のことである。

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