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対話の力~自分語りをしなかった中1長男が、毎日、自分のことを話してくれるようになるまでの話

わたしがリビングにいると、今年中1になる長男が寄ってきて、なんでもないことを話し始めます。思春期とも言える年頃なのに不思議な感じ。

わたしと同じくらいの体格になった男子が、声変わりし始めたなんとも言えない声で、他愛もないことを一生懸命語ります。そのビジュアルに笑っちゃいそうになることもありますが、間違いなくそれは、わたしにとって、じわーっと続く幸せを感じられる時間なのです。

以前は、そんなタイプではなかった長男が自分から話すようになったのは「わたしの在り方」が変わったからではないかと友人に言われました。

そう仮説を立てると、納得できることがどんどん出てきて、わたしの在り方が長男の振る舞いに大きな影響を与えていると、改めて実感したのです。

今日はそんなことをnoteに書いていきたいと思います。

話したいタイミングで話す長男

ある日のこと、子どもたちより少し遅れて夕飯を食べていると、とっくに夕飯を済ませた長男がやってきて、わたしの目の前に座りました。わたしが顔を上げると彼は自分の友だちの話を始めました。

「あれ?なにか話したいことがあるのかな」と、長男の話の目的を探しながら聞きましたが、そんなものは特になさそうです。時折はにかみながら、その日の授業の内容や、先生の理不尽さについてなど、どんどん話が進みます。

次の日も、その次の日も、わたしがひとりでいると、彼は自分の身の回りのことを話しにきます。そのうちわたしの仕事部屋にまで入ってきて話すようになりました。

平日は毎日18時まで学童にいた小学生時代とは違い、中学生になった長男は家にいる時間が増えました。わたしも家で仕事をしているので、彼の定期試験の最中や部活のない日は顔を合わせる機会がたくさんできました。

なんとなーくお互いが顔を合わせると、長男がなにげないことをたくさん話します。「あ、そろそろいかなきゃ」となるくらい長男が話に夢中になることも。

わたしにとってはどうでもいい話がほとんどです。おそらく長男にとってもそんなに重要な話ではなさそう。自分の話したいタイミングで話したいことを話しているだけの感じがします。

わたしも聞き出そうとしたり、アドバイスしたりせず、「そうなんだねー」「へー、もうちょっと教えてよー」と、基本的にはただそこにいるだけのスタンスですが、たまに例外もあります。

それは、長男が学校で習ったことをわたしに問題として出してくるときです。中1の化学や歴史なんて「知らんがな」と思う一方で、わたしの好奇心が反応し、2人でちょっとした議論を交わすこともあります。

一緒にいるのに一緒にいない時間

思い返してみると、「子どもと話せている」と感じるようになったのはごく最近です。うちには子どもが3人いて、一番下の子が小学生になるまで「全員なに言ってんのかわかんない」とわたしが思っていました。

わが家には、わたしのほかに大人がいないせいか、「子ども対母」というコミュニケーションラインが常に3本走っている感覚がありました。1対3ではなく【1対1×3】です。「早く子ども同士で話すようにならないかな」といつも思っていました。

頭では、子どもとの対話がとても大切であることを理解していたつもりだし、そうしたいとも思っていました。だから、話を「ちゃんと聞く」ことを意識していました。

しかし、一斉に話しかけてくる(ように感じる)3人の子どもに対応していくので精一杯で、わたしが興味の持てないポケモンやゲームの話に反応することすらできず、食事や移動の時間といった、4人が自由に話せる時間が億劫でたまりませんでした。意識しなければ、子どもの話が聞けない状態だったとも言えるでしょう。

もしかしたら、話題に興味が持てないというより、子どもに興味が持てなかったのかもしれません。渦中では気づいていませんでしたが、子どもたちと同じ空間にいても、「心ここに在らず」だったように思います。

変わったのは子どもではなく、わたし

長らく続いた【1対1×3】のカオス(だとわたしが勝手に思っていた)時間が、あるとき軽くなっていることに気が付きました。子ども同士の会話があり、3人の言っていることが頭に入ってきたのです。

「子どもたち、成長したなぁ。わたしが理解できる話をしてくれるようになったんだなぁ」と、わたしは思いました。早速そのことを友人に伝えることにしました。「子どもがちゃんと会話できるようになったんだよ」と嬉々として話すわたしに友人が言いました。

「んー、変わったのはお子さんたちじゃなくて、ゆみさんじゃないの?

わたしはハッとしました。

確かに、前に比べて自分の状態は整っていました。「自分で決めて自分で実行する」と決めてから数年が経ち、行きつ戻りつしながらも、確実に自分が手に入れたいものに向かって進んでいく力を取り戻せている実感がありました。簡単に言うと、元気になったのです。

架空の人をロールモデルにして凹む日々

「対話をしよう」と意識してもうまくいかなかった頃は、自分の力を過信して、持っているエネルギー以上のことをやろうとしていました。

仕事で成果を出さなければ・・・
育児をうまくしなければ・・・
家事をちゃんとしなければ・・・

非の打ち所のない完璧な人、非現実的な架空の人をロールモデルにして、そうでない自分はダメな人だと思っていた時期でした。実際にいない完璧な人と比べては「こんなんだからダメだんだ」といつも凹んでいました。

仕事量に関係なく、いつも疲れていました。

「完璧にできるわたし」でいたかったので、そうでない自分に価値を感じませんでした。そんな状態なので、子どもと接していても、別のことを考えていたり、そもそも目の前にいる子どものことを心から気にかけることはできていませんでした。

「自分で決めて自分で実行」したらうまくいくはずなのに、なにかがおかしい!おかしいんだから自分のマインドを見返そう!と思うに至り、架空の人を目指すことをやめました。そこからです。周りにも変化が起き始めたのは。

対話の力だけでなく、対話できる状態もたいせつ

とにかく仕事も含めた日々の生活を淡々と実行しました。少し先の未来ではなく、日ごとに「自分で決めたことを実行」しました。詳しいことはまた別記事に書くとして、そこから少しずつ、自分に合った豊かさを実感できるようになりました。自分サイズの幸せがあることに気づいたのです。

子どもたちの話が耳に入ってくるようになったのは、自分サイズの幸せに気づけたからだと思います。対話をしようとしなくても、対話ができるようになりました。

ジャンルを問わず、いかに高いスキルを持っていたとしても、スキルを使いこなせる状態になっていなければ宝の持ち腐れだと言われます。対話の力も同様です。裏を返せば、対話の力が多少低くても聞き手の状態が整っていれば、対話はいい流れになるように思います。

「子どもの話を聞けるようになろう!」と思ったわけではなく、わたしは自分の状態が整ってきた結果、子どもたちの話が聞けるようになったという実感があります。だからこそ、対話の力を高めると同時に、対話できる状態で在ることもたいせつにしていきたいと思うのです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
そして、メリークリスマス!!



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