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その9 透明な枠

 心の庭が整ってきたとはいえ日々色々あるもので、特にあの頃の体調は良くなかった。毎日の作業さえはかどらない状態だった。こんな時に限って心に負担がかかるようなことが起こる。
初対面の人に、自分のあずかり知らぬことで不満をぶちまけられたのである。何とかしてほしいという要望とともに。

(なんでそんなに感情的になってんねん。)

その人は明らかに余裕がない様子だった。仕方なく話を持ち帰り色々と調べたり人に聞いたりしたものの、こちら側に出来ることはなかった。それよりも相手の方に対処できることがあるように思えた。
しかし事情があったため、そのことを口に出来ない。
三回会って三回とも同じ話。さすがに切れそうになったところで、事情をよく知る別の人が話を聞いてくれた。
私は堰を切ったように話し始め、そしてその最後に出てきた訴えのような言葉がこれだった。

‘’あの人がするべき・・ですよね!‘’

__‘’べき‘’…なんて言葉は結構使ってきた。それでも子育てを経験する中で、この言葉に少しずつ違和感を感じるようになっていた。何人かの子供に同じように、‘’~して当たり前‘’という言葉は意味をなさなかったからだ。皆それぞれに違う人間。それに沿える時もあれば沿えないときもある。

(…‘’べき‘’って何?)

疲れ果てて余裕が無かったのは私も同じだった。何をどうしようとしても納得のいくゴールが見えない。相手の不満ばかりが覆いかぶさってくる。もう限界。もうかかわりたくない。何故こんな思いをしなければならない?

……そして、とうとう姿を現したのである。ずっと自分の心の奥にあった、けれどすっかり自分と一体化してしまっていて全く気付かなかった後付けの固定観念が。

‘’人は自分のするべき正しい役割を、果たすのが当たり前__。‘’

皆がそれぞれにいつだってそうできるなら、世界は平和よね、って考え方。
でも実際、いつだってそんな‘’枠‘’にハマっていたら疲れてやっていられなくなる。自分だって全然できていない。なのにどうしてこんな観念が、そこにあるとはわかりにくい透明な状態でぺったり心に張り付くように存在しているのか。
モヤモヤした気持ちを抱えたままの私に、別のことが起こる。

 実家を訪れたある日。時間が無かったこともあり、私は早くそこを出て次の用を済ませたいと思っていた。けれど「もう少し居て。」という親の言葉に、自分の体が縛られて動けなくなったのである。あの‘’思いやり‘’の形をした何かだった。黒い塊ももちろん感じたが、少しの間だけ…と、苦しみを抑えながらそこにいた。もちろん話はほとんど耳に入らず、そこを出た時にはもうヘトヘトになっていた。

(なんで我慢してしまうんやろ。こんなこといつからやってんの?)

私は再び心の奥深くに入っていった。