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改めて家族について考える

家族療法の話を進めている途中だが、ここで改めて家族とは何かを考えてみたい。

多くの人は家族と言われると両親と子ども(同居していれば祖父母も)をイメージすると思う。つまり

・同居している(利害関係を共にしている)

・血縁や婚姻関係・もしくはそれに準じた関係の人のつながり

というのがポイントになるようだ。

かなり曖昧ではあるが、この2つの条件のいずれかもしくは両方当てはまることが人が家族関係について意識する要素だと言えよう。

恐らく家族ができた一番の理由は子どもを育て、万が一ケアが必要になった際のセーフティネットとしての役割だ。人間は生まれてからしばらくは大人の手がなければあっという間に死んでしまうし、医療が発達していない時代は妊娠や出産時のトラブルで母親(場合によっては母子共)が死亡することも今よりずっと多かった。

人間は脳をある程度大きく育てるために妊娠期間も長い。その一方で他の妊娠期間が長い動物(ゾウやキリンなど)の子どものように生まれてからすぐには自力移動できない。

人間の体について知れば知るほど人間は進化する過程で相当ハイリスクな賭けに出たな、と思うことがある。これは私の個人的な見解だが、家族は人間が脳を発達させるために己の体を適応させた代償という面もあるだろう。

だからなのかもしれないが、人間はそのひ弱な体の能力を補うために脳を使って家族や社会を作り、テクノロジーを駆使して文明を発展させてきた。

そして、文明の過程でできた都市や近代国家の誕生の中でそれまでは少数派だった核家族がメジャーになったと言えよう。

核家族の誕生

国勢調査によると日本の平均世帯人数2.6人で、単独世帯の増加が続いている。特に高齢者世帯ではその傾向が著しい

同居していても世帯分離している場合統計では別世帯と計上されるし、別居でも敷地内同居という場合などもあるから一概には言えないが、今の日本では三世代以上の大家族は少数派となりつつある

核家族が広まったのは都市の拡大とそこで働く労働者が地方から流入したのが理由だ。日本では第二次世界大戦後の高度経済成長期に都市部に若者が労働者として流入したことも核家族が多数派になった理由だろう。

家族の形は社会情勢や産業などによって柔軟に変化する-この柔軟性こそ人間らしさなのだが、その中で生じる家族の問題もまた様々な形になって現れ、それに社会制度が追いつかないという現実もある

それを実感したのがキューバやフィンランドを訪れたことだった。いずれも日本とは異なる社会制度や文化の国であり、私の家族観を大きく変えるきっかけをくれた経験だった。

家族の形の多様性

私が家族の形に興味を持ったきっかけは、新婚旅行で訪れたキューバが日本とは全く異なる結婚や家族の形が当たり前だと知ったことだ。

実はキューバは日本よりも離婚することへのハードルがずっと低い。新婚旅行時ガイドをしてくださった日系キューバ人男性も「私は4回離婚しています。今の妻は5人目」とサラッと話してくれた。

それだけ結婚と離婚を繰り返しているから当然家族構成も複雑化するが、離婚しても前のパートナーとの家族ぐるみの交流は続き、異母・異父兄弟姉妹で一緒に暮らすというのも珍しくないらしい。当時はかなり驚いたが、私が家族と思っていた関係はなんと限定的だったのか!と新鮮な気持ちにもなった。

当時のキューバはまだフィデル・カストロの統治下で、アメリカの経済制裁を受けていた。いくら教育・医療・福祉が原則無料と言っても暮らしは楽ではないし、物不足で配給も十分と言えない。何しろヒッチハイクを政府が公認しているという驚きの事情からも推測できる。だから共助としての家族同士やご近所同士の助け合いが不可欠という事情もある、というのを後から知った。

日本ではきっちり物事が進むのも核家族が成立するのも社会インフラが整備されているからだが、一方で長時間労働の問題もあるから一長一短な面があるとも感じた。

その10年後今度は特別支援教育の視察のためにフィンランドへ行った。ユヴァスキュラという中部の街では大学の教員養成課程や現地の小学校、トゥルクというかつて首都だった街では小学校を訪れたが、国や家族の前提条件の違いを実感することが多かった。

フィンランドでは学びも働き方も、そして子どもへの支援も様々な選択肢がある。そしてまだまだ男女格差が残っているとはいえ、日本よりもずっとジェンダーギャップが少ないだけあって、女性がフルタイムで働いていることが前提で社会制度ができている。

実はフィンランドは1/3くらいの児童が特別支援教育の対象になるとのことだが、単元のみといった補習のような形のものも含まれているそうで、これは塾がほぼ存在しない、放課後はプレイパーク(学童に近いが、地域に開放されていることもあり、日本なら児童館に近い感覚)地元のスポーツクラブなどで過ごすことが多いといったお国柄もあるようだ。

労働者保護の法律も厳しいし、クラスの人数も日本よりもずっと少ないから一緒に訪れた先生たちが羨ましがっていたのが印象的だった。この様子を見て感じたのが日本ならどのように変化したら家族がより暮らしやすくなるのだろう?ということだった。

個人と社会との狭間で

最近感じるのは家族のように個人と個人をつなぐ背景のような関係がどんどん希薄になっていることだ。いわゆる共助のつながりが減ってしまうことで、いきなり自助から公助につなぐことができないと途端に手詰まりになってしまう。

自力である程度準備しておける人や交渉能力が高い人ならともかく、大半の人にとって困った時は余裕がない状態だ。公助に繋がる前にある程度クッションとなる繋がりをどう築いていくかは重要な問題となるだろう。

高齢者世帯も単身世帯が増加していると先に述べたが、実は若年層も単身世帯が増えている。多世代型シェアハウスなどの取り組みも少しずつ増えているが、見ていて感じるのは人と人とをつなぐ調整能力・交渉能力と、トラブルが生じた時弱者ばかりに我慢を強いない問題解決を導ける能力だ。

共助の理想形は?これからの時代が求める家族の形は?家族療法を知る上でも考えておきたいテーマだと思う。










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