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直された作文

2歳になったばかりの息子が時々、よその子におもちゃを取られて悲しそうにしている。その顔を見るたび、忘れかけていた昔の記憶を思い出す。

小学3年の時だ。わたしの書いた交通安全の作文が入賞し、新聞に掲載されることになった。はっきりと覚えている。先生が「作文が新聞に載るよ」と伝えに来た際、続けて「少しだけ文章を直して提出するね」と言ったことを。その日の下校時間、職員室でなにかを書く先生の背中を見て、わたしの文章を直しているのだろうかとドキドキした記憶が妙に残っている。

直された文章を見たのが掲載前だったか後だったかは覚えていないが、見た瞬間に泣き出したくなった。うろ覚えだが「キキー、ドンッ!という音が聞こえ、眼の前が真っ暗になった」というような文章から始まり、全文が全く違うものになっていたのだ。特にわたしは最初の「キキ―、ドンッ!」がとても嫌だった。わたしが車に轢かれた時、音なんて聞こえなかったからだ。その瞬間の記憶は、無音で、まっしろで、スローモーションだった。

改変された体験が、わたしの文章として新聞に載ってしまうこと。入賞したのは作文がよかったからではなく、車に轢かれた経験がよかったのだと知ってしまったこと。そのふたつがとても悲しく、喜ぶ母や祖母の姿を見てさらに悲しい気持ちになった。

大人になった今、このことを思い出すたび、自分の気持ちをちゃんと伝えるべきだったと小さく後悔する。その後悔が、おもちゃを取られても怒らない息子の姿と妙に重なってしまうのだ。こんな時、親としてどう声をかければいいのだろう。「怒っていいんだよ」って言うのも角が立つよなぁ。と、長らく答えが出ずにいたが、今ふと思った。わたしは直された作文を見たあの日、大人から「どう思った?」と聞いて欲しかったかもしれない。そもそもわたしはあの日、怒れなかったのではなく自分の感情に気付けなかったのだ。

わたしが息子にできるのは、教えることではなく感情探しを手伝うことかもしれない。そう思うと少し気が楽になった。

※この記事は、琉球新報にて連載中の「落ち穂」に寄稿したものです。紙面掲載が完了しているものを許可をもらって転載しております。(改行など一部変更あり)

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