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マンガ家になりたいって言えない

「マンガ家になりたい」と言えない。

どうしても、喉につっかかって言えない言葉、というものがある。自分の希望が人に言えないこともあるだろうし、大切なプロポーズが言えないという人もいるだろう。わたしは、自分の思惑とズレて受け取られる可能性のある「〇〇したい」という言葉がどうしても言えないだから「マンガ家になりたい」もちゃんと言えない。

質問の意図を読みすぎる子ども

「将来の夢はなんですか?」と聞かれたことはあるだろうか?わたしは幼稚園や小学校の時、教師や親によって聞かれた。その問いは、教師によるものである場合「作文の題材を選べ」という意図だった。よってクラスの前で400字程度で説明して恥ずかしくないものを回答すればよい。問いが親によるものである場合、「自分の機嫌に合う職業はなんでしょう」という意図だった。だいたいレコメンド(〇〇ちゃんは〜になったらいいよー)が続くので、それを拾って答えておけばよい。「将来の夢」とは「小児が自主的に将来就きたいと希望する職業」を指すが、会話の中の質問は定義通りに語を理解すれば答えられるものではない。発話者の意図を読み、意図に合った回答をすることが求められる。

でも本当のところは

このように、「意図読み」を軸にした言語ゲームこそ「将来の夢」を巡る会話だ…と思うまでひねくれたのは、訳がある。マンガ家になりたかったからだ。マンガ家になりたかったんです〜〜。小学生の時わたしは『りぼん』を毎月欠かさず愛読しており、将来は『りぼん』のマンガ家になろう!と決意していたのだ。わたしの母は拘りが強く厳しかったので、「将来の夢は医療従事者もしくは市役所職員」と決まっており、従わないと怒られるのは目に見えていた。だからわたしはそれに従って「将来の夢」を言っていたのだが、本心ではなかった。

実は、ほんとうの定義上の将来の夢を、友達に言ったことがある。小学校で一番仲の良かった友達に、「マンガ家になりたいんだ」と下校中の通学路で言った。とても勇気が要ったのを覚えている。冷笑されたり否定されたりすることを恐れていたのだけど、そんなことは全くなかった。さらりと「そうなんだ」というような反応だったと思う。やっぱりわたしの友達は良いと思った。

本心を言うときには

自分の本当の希望を言うのは、わたしにとって重大なことだ。だからできれば、親しくないクラスメートの前で発表させられたり、親の自尊心の道具にされたくない。今だって、マウンティングだったり何かのセミナーだったり、「成功するためには」のような社会的な文脈に意図をずらされそうなときは、思ったことが上手く言葉にならない。わたしは描きたいマンガはあるけど、それ以上のものはないのだ。

言葉を発するということは、自分で自分の本心を確認するということだ。言葉は世界を認識する時の唯一のよりどころである。だから、社会の文脈にしたがって、自分の一番大事なところの認識をあまり曲げたくない。小学生の時のわたしの様に、はっきり「これは方便」と自覚しているときはいいのだけれど、社会的要請の内面化を、強く求められる場面が多くなってきた様に感じる。仕事で自分を活かさなければならない?親になっても充実しなければならない?抑圧されている状況、それを希望するように語れ。というメッセージが、あまりにも多すぎない…?立場が弱い者は語らされることに疲弊していないか。労働や肩書イコール自己実現ではないし、自己実現は煽られるものではなかったはずだ。

わたしが10代だった頃に比べると、現代の価値観は確かに多様化しているかもしれない。しかし多様な「共感性の高いメッセージ」のどれかから自分の意見を選ばなければいけないということはない自分で言葉を吟味して、実感を持って表現する。安全の担保された場所で、なるべく正確に伝わる様に対話する、というのは、それなりに時間と手間のかかることだ。準備ができるまでは、安易に選びたくない。そのことをここ数年密かに大事にしていて、「それでは成長できないよ」と言われても、扱いにくいと見られても、わたしは今のわたしのやりたいことを、労働の文脈では言えない。


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