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夕陽が娯楽。沖縄県民のゆたかさ
沖縄に住みはじめて早6年。本当は1年くらい住んでみて、飽きたら帰ろうと思っていた沖縄移住生活は思いのほかどんどん伸びて、気付けば沖縄が本籍になってしまった。
沖縄にはとてもゆたかな精神を持っている人が多くて、住みはじめた当初は「受け入れてもらえないのではないか」と一瞬だけ思ったが、全然そんなことなくて不安はすぐに消え去った。
そんなゆたかな沖縄県民。とくにお気に入りの県民性(?なのかな)がある。それは「夕陽を見に行く習慣がある」ことだ。
というのも、私は沖縄県民から「夕陽見に行こうよ!」と誘われたことがあるわけではないけれど、夕陽が見たかったり撮影があったりで、夕陽めがけて海に行くと必ず「夕陽のためだけに今さっきここに来た人たち」がたくさんいるのだ。しかも高校生とかそれくらいの若い人たち。
私が10代の頃なんて、夕陽が見たいと思ったことはただの一度もなかった。香川の田舎で生まれ育った私は、そこにあまりにも自然が自然に広がっているもんだから、その当然の景色にまったくもって興味がもてなくて、ひたすらにゲーセンでプリクラ撮ったりボーリングしたり、お金もないのに商店街をぶらぶらしたりしていた。
それなのに。
それなのに沖縄の若者ときたら。なぜその若さで夕陽を見て美しいと思えるのだろう。なぜその価値に気付くことができるのだろうか。
もちろん沖縄の高校生だって、ゲーセンもボーリングもしてると思う。だけど遊びの選択肢の中に、たった数分でも夕陽を選ぶことができる心のゆたかさが羨ましい。
ひとつ前のブログでも引用したのだけれど、大切にしたいと思ってメモしている言葉がある。
本「平熱のまま、この世界に熱狂したい」で、著者の宮崎智之さんが「最近やけに嫌なことが起こるなぁと思ったら、朝顔を育てることを忘れていた」と気付いたことについての文だ。
そんな大切な朝顔を存在を、ぼくは忘れていた。新しい土と肥料まで買っておいたのに、仕事が忙しかったでは言い訳にならない。朝顔の種を蒔いて、水をやり、花が咲き、散るのを見届ける。人生にとってこれほど重要な生活の彩りを忘れるくらい余裕をなくし、心を失っていたなんて、生きる喜びを放棄したと言われても仕方がない。
私たちは往々にして、人生で大切なことを長い間見失ってしまう。実際、私が夕陽を眺めるひとときの素敵さに気付いたのは結構大人になってからだ。
沖縄の人はときどき、大事なものがずっと分かっているように見える。時にやさしすぎて、資本主義の世界では苦しむだろうなと思うシーンもあるけれど、もう少し時代が前に進んだら、モノに執着せずに暮らせる沖縄県民のゆたかさが重宝されるのではないだろうか。少なくとも私はとても羨ましいし、住むことで染まっていきたい。
ちなみに沖縄は夕陽後の余韻も美しい。これは夕陽を撮影した帰り道に見た、ブルーモーメント(夜明け前と夕焼けの後のわずかな隙に訪れる、辺り一面が青い光に照らされてみえる現象)。(※助手席で撮影しています)
余談
実は最近しょっちゅう生き方とか暮らし方について考えていて、それは間違いなくこの本が影響しているので、軽く紹介したい。
独立研究家でありパブリックスピーカーの山口周さんが「ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?」という問いのアンサーを追求する本。
「文明」の充実はもう終了したから、まずは終了を受け入れて「文化」の充実にフェーズを移行させるべきなのではないか、というかなり壮大な議論だ。
まだ読みかけなので詳しくは後日書きたいのだけれど、この本を読み始めてから、自分の生き方に自問する機会が格段に増えた。
生き方や暮らし、働き方にモヤモヤしている人はぜひ手に取って欲しい一冊。以上、余談でした。
※記事で紹介した画像は最後の1枚以外は美らSUNビーチ。最後の一枚は西海岸道路沿いのどこかで撮った写真です。
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