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雪降る夜の燗酒

 最悪だ。店の外に出て降りしきる雪を見て思う。一歩足を踏み出す。長靴が雪の中に沈む。空気が冷たい。冷たいというか痛い。ダウンジャケットのフードを被り、傘を差す。顔面を雪が叩く。眼鏡が濡れる。傘は一刻毎に雪で重みを増す。
 最悪だ。雪に足を沈ませながら何度も思う。会社を呪った。こんな時期にこんな辺境の地に異動させやがって。
 12月に千葉から青森県十和田市の店舗に異動になった。全国展開しているドラッグストアで、全国転勤可のナショナル社員として働いているのだから文句は言えない。でも、12月にいきなり関東から本州最北の青森だぞ、雪国だぞ、ちょっとは配慮しろっていうんだ。どうせ誰にも聞かれていないので呪詛の言葉を吐きながら雪道を歩く。そうでもしないと寒さと雪の冷たさでどうにかなってしまいそうだった。
 車はあるが、朝起きたら雪に埋もれていて駐車場から出せる状態ではなかった。店まで歩いて25分位の距離だから、歩いた方が早かった。
 仕事は朝の8時半から夜の21時まで。長時間勤務だ。朝はまだいいが、夜真っ暗闇の中、25分も歩くのは辛い。歩いている人間も他にいなかった。
 と、目の前の景色が突然ひっくり返った。いや、自分がひっくり返ったのだ、と夜空から落ちてくる雪を顔面に浴びて気付く。雪がクッションになってくれたせいで、ダメージはなかった。起き上がり、ノロノロと歩く。
 しばらく歩くと、灯が見えてきた。群青色の暖簾が揺れている。雪に塗れているが、酒と肴徳利と書いてあった。居酒屋か。夕食は家の前にあるコンビニで買おうと思っていたが、居酒屋もいいかもしれない。雪道を歩くのも限界だった。
 引き戸を開く。入ろうとしたが、すぐに自分が雪だるまのような状態であることに気づき、店先で雪を払う。中に入ったら、今度は眼鏡が曇ってよく見えない。
「いらっしゃい」
 眼鏡の曇りがようやく解けて見回すと、カウンター席と小上がり一席のこぢんまりとした店内だった。カウンター席に座る。
 気配を感じて顔をあげると、寡黙そうな店主がおしぼりを差し出していた。暖かいおしぼり。雪の冷たさでかじかんだ手に徐々に感覚が蘇ってくる。
 メニューを手に取る。串や秋田比内地鶏、刺身などちょっとした酒の肴になる一品料理が多い印象だ。
 その中から気になったものを適当に頼む。
「お飲み物は?」
 家で飲むのはビールが多いが、身体中冷え切った状態で飲みたい気分ではない。温かいお酒、と考えて燗酒と書いてあるのが目に入った。燗酒という言葉は初めて聞いたが、熱燗のことだろう。
「かんざけ、で」
 読み方がこれでいいのかちょっとだけ不安があり、伺うような言い方になってしまう。
「はい。お酒はお任せで大丈夫ですか?」
 普段日本酒はあまり飲まない。名前や詳しい説明をされてもよく分からないのでちょうどいいと頷いた。
 落ち着いたジャズが流れる中、店主が調理をする音が静かに響く。大雪の日だった。他に客はいなかった。
 しばらくすると店主が徳利とお猪口を差し出してきた。
「佐賀県のお酒、上撰金波です」
 熱いので、徳利の上の方をつまんでお猪口に注ぐ。一口飲んで少しむせた。でも二口目からは大丈夫だった。喉を通ると身体の中から暖まるようだった。
「白子の炙りです」
 一品目が出てきた。白子ポン酢は昔食べた記憶があるが、炙りは食べたことがない。一口食べて、旨い、と思った。まろやかでクリーミーだった。何より燗酒に合う。
「こんな店があるなんて知らなかったですよ」
 気が付くと店主に話しかけていた。そのことに少しびっくりする。外食しても店主に話しかけるような社交性は持ち合わせていなかった。
「お客さんここの人ではないですよね」
「あ、分かりますか」
「言葉が綺麗だから」
 言葉が綺麗。そんな風に言われたのは初めてだった。
 いつのまにか身の上話をしていた。今月、千葉から青森に転勤になったこと。寒さと雪が嫌で仕方がないこと。
 店主は調理をしながら静かに聞いてくれた。
 二品目が出てきた。セリとれんこんのかき揚げ。セリも初めて食べるが旨かった。
「旨いですねえ」
 普段照れくさくて口にできないことが、今日は何だか自然に口から出てしまう。
 熱燗がなくなったので今度は日本酒を冷やで頼む。身体は十分に温まっていた。今度の冷やも旨かった。
 その日はたくさん飲んだ。次の日は休みだった。
「また来ます」
「お待ちしてます」
 寡黙な店主は最後まで寡黙なままだった。
 外に出ると雪が止んでいた。空気は冷たいが、店に入る前に感じたような、射るような冷たさではなくなっていた。
 空を見上げると夜空に星が輝いている。千葉にいた頃よりも空は澄んで見える。そのせいか星もたくさん見えた。
 ああそうだ、青森にいるのだと思った。今、自分は青森にいる。
 またこの店に来よう。そう心に決め、雪道を歩きだした。


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