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練習にまみれて、本番を忘れていた

眼科の定期健診の待ち時間に、Kindleの読み放題でミセス向けのライフスタイル系の雑誌を読んでいた時のこと。

夏に備えて今のうちに汗をかく練習をしましょう!

こんな記事に目がとまった。
いつもなら、ふうん、と流し読みするような普通の健康系の記事なのに、なぜかすごくうんざりした気分になった。

汗をかくことまで、練習・・・?

自分の中のコップがいっぱいになって何かがプチンと切れたような感覚だ。私はKindleの電源を切った。


どちらかといえば、私は練習するタイプだ。

小学生の時、先生から教わった
「練習は不可能を可能にする」
という言葉を掲げて、毎日縄跳びの練習をした。

その頃から「練習」は私にとっては日常的なものになって生活の中に入り込み、いつだって何かしら練習してきた気がする。


練習は、何かを成功に導くためのもの。
成功をイメージして練習する。

・かけっこで一番になってテープを切る自分を想像して、もも上げやスタートダッシュの練習をする。
・きれいなラインが目元を縁取ってくれることを目指して鏡の前でアイラインを引いては消し、を繰り返す。
・家族が集まる日に美味しいものを最高のタイミングで出すために料理を練習する。

練習は時に辛かったり、面倒だったりする。
それでも練習をやめないのは最高の「本番」のため。

頭の中に成功のイメージがあれば、練習そのものが楽しくなくても練習の時間は何かワクワクした感覚を与えてくれる。練習の延長線上の成功を頭の中で体験しているからだ。

逆に言えば、練習する時に本番で成功するイメージがなければ、その練習は辛さや退屈さだけしかもたらさない。

私は日常の中で、面倒くさいことや辛いこと、やりたくないことがあると
「これも○○の練習になるから。」
と、自分を納得させてきたのだと気がついた。

子どもの幼稚園時代にいわゆる「ママ友」のコミュニティーではいつも何かしら人間関係のトラブルが起こっていた。その中で、なんとか上手く乗り切らなければと思い、行きたくない集まりに顔を出したりおつき合いで何か買ったり、四苦八苦していた。
その時考えた。
「人間関係の練習だから頑張らないと!」

でも、その練習は私に何もワクワク感は与えてくれなかった。終わったときの達成感もなかった。

それは、練習の先にある人間関係が私の欲しいものとはまったく違っていたからだろう。そのコミュニティーでどうにかトラブルを回避したとしても、先々までずっとおつき合いしたいとはとても思えなかった。

確かに、どんな経験も無駄にはならない。ママ友コミュニティーでの苦労も何かの役には立っているのだろう。
だからといって、全ての気が進まないことを「練習」でくくってしまえば、練習がただ嫌な、退屈なことになってしまう。

やはり練習は自分にとって大切な「本番」のためにするものだ。
その本番は、成功するイメージを思い浮かべるだけでテンションが上がる、そういうことだ。

ものごとの大小は関係ない。
家族に出すごはんの味付けであれ、大きなスポーツの大会であれ、自分が本当に成功したいと思うかどうかがカギだ。

私はそのことをすっかり忘れて、日常生活の中の面倒なことを「練習」にすり替えていた。

ちっともワクワク感を与えない、ニセモノの練習。
それがどんどん増えた結果、いっぱいいっぱいになって、うんざりしてしまった。

最初に書いた、夏本番のために汗をかく練習。夏にちゃんと汗をかいて体温調節がうまくいくこと。それができれば健康のためにいいことだけど、私にとっては練習をするほど成功したいことではなかった。(その記事自体が悪いわけではない。)

本当に成功したいことなら、どんどん練習したい。練習して上達したい。練習すると、血が湧きたつような感覚を覚える。

子どもが「練習しなさい!」って言われるとやりたくなくなるのも、そういうことかもしれない。

「練習すれば漢字テストで100点取れるよ」
と言ったところで、漢字テストで100点を取っても本人がちっとも嬉しくないのなら練習は退屈なだけだろう。

周りから見て「成功」に見えることが、本人にとってそうなりたい姿とは限らない。

練習の先の「本番」は、自分だけが決められる成功のイメージだ。

とっておきの瞬間を夢見て、練習に励みたい。



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