無題(3)女とわたし

noteという媒体があるのは、有難いことだ、と思う。

わたしは、私が書く文章が結構好きだ。
なんとなく思いついて書き残した言葉たちでも、こうして数か月経って見直してみると、「なんだ結構いいもの書くじゃん」と思える。
つまりは自分のTwitterを延々見返せるタイプ。陰キャ万歳ですが何か¿
Instagramはログアウトしてアプリ消しました、ブラウザからこの記事のリンクをストーリーに貼ってみようかなとか思案中。フォロワーとかいう、ワンタッチで繋がっている人間たちの大半が私のことなんてどうでもいいのだろうが、そういう人間から私は、私の文章は、どういうものに映っているのだろうか。

noteはある種Twitterよりも「魅せる」ことにスキルポイントを振ってるから、私の欠片の中でも、より綺麗で醜いものが残っている。
有難いことだ、と思う。

まあそんなことどうでもよくて、久しぶりに何か書きたいと思った。

最近、大学5年生になった。
5年目にして、自分の専攻を変えるという選択をした。
いまは1年生に交じって、物事を考えるための基礎を学んでいる。考えるとっかかりを得るために、学んで、考えている。
5年目になっても、学内に女しかいないという環境には一向に慣れる気配がない。毎日約7時間、360°どこを見ても女、おんな、オンナ、気持ちが悪い。
上手くいけばあと3年はこのメス地獄にいることになる、大変だ。わたしの我儘にも応えてくれている大学自体には感謝しているが。

何故文章を書きたくなったか、正直なところ私にもわからない、が、何か書かないと気が変になりそうだったし、なにより今なら書けそうな気がした。
個人的な話しかする気が無いので、それでも興味があるという物好きは読み進めていただけたらと思う。

今期からジェンダー論を学び始めた。
過去の記事でも触れているが、私は大の女嫌いである。ジェンダーを学ぶことで、自己のトラウマやコンプレックスの解体に繋がるのではないかという期待があった。あと、学問的な切り口としてジェンダーの視点を得ることができれば視野が広がるだろうなとも思った。

ところが、これがかなり曲者だった。

社会的な性の問題を考えるとき、どうしても自己の経験と絡めてしまう。
人文学的な研究であれば、その発端に個人の感情が混ざるのは当然なのだとは思うが、それでもこれが結構キツい。
自分はこれまで、自分の「性」をどのように扱ってきたか。そのことをどう捉えているか。

今までなんとか見て見ぬフリで、蓋をしていたものが、ゴポゴポと音を立ててこじ開けられようとしている。既に悪臭が漏れ出ている。
男に「女」として見られようとしてきた自分。同じような「女」のいるコミュニティに絡んで散々な目に遭った自分(この女は周囲のあらゆる関係を切った今でも私の脳みそを執拗に這いずり回っている)。逆に、コミュニティで自身の「女」を利用しようとした(当時はそんな自覚も無かったが)ら、知らないうちに排除されかけていた自分。
わたしの人生で嫌というほど意識せざるを得なかった、だけど無意識のままに利用していたり振り回されたりした、「性」という問題が、明らかな重みと大きさをもって眼前に迫ってきたのだ。

逃げるべきか、立ち向かうべきか。なんらかの武器をこしらえるために一時撤退するべきか。
或いはこの問題を乗り越えたときには、どんな景色が見えるだろうか。

今の私には明確な答えは出せない。と思う。

ただ、幸いなことに、「今、読みたい」と思える本が手元にあった。
小松原織香さんの『当事者は噓をつく』という本。先日、ある本のイベントを通じて仲良くなった自分のお母さんくらいの年齢の人が、今の私に丁度良いと思って、と言って貸してくれた。
それと、鈴木涼美さんの『娼婦の本棚』。これはよく行く古本屋(近代国文学を中心にサブカル臭がプンプンして大変居心地が良い)で見つけた。
これらが本当に素晴らしい本だった。ジェンダー論の講義を受けて、苦しさと、どうにかしたい気持ちと、言語化できないままならなさでいっぱいの中で、「ここにヒントがある気がする」と思って読み進めた。
いずれもまだ途中だが(それでも一日で一気に半分以上は読んだ)、これから研究テーマを決める中で大切にしたい感覚がたくさん、たくさん書いてあった。

小松原さんは、「研究者」であることと同時に「当事者」であり、その葛藤を赤裸々に綴っている。 具体的にどう、とかではなくて、ただ一言、「こう在りたいな」と思った。
鈴木さんは、「オンナ」になりたい「オンナノコ」の気持ちを巧みに表現していて、実際に「オンナノコ」向けとして書かれているが、私のように「オンナ」になった者だからこそ鈴木さんの「オンナノコ」を回顧する感情がよくわかって、すごく切なくなった。

書籍紹介みたいになってきた。
とにかく、最近の私にとって「女」がキーワードになっていることは間違いないみたいだ。

そういえば、短編小説を書こうとしていたが色んな気持ちで止めてしまっていた。約束を反故にするのもなんとなく癪なので、もう一度練り直してみようかと思う。
村上春樹は「女のいない男たち」という短編集を書いているが、もしも題名が「男のいない女たち」であれば、そこにどのような物語が生まれるだろう。ひとつ、書いてみてもいいかもしれない。村上氏のオマージュを大々的に打ち出せるほどの力量も熱量も持ち合わせてはいないので、またひっそりとここに載せることになるかもしれない。

そんなところだ。思いの外筆が乗って楽しかった。おやすみなさい。

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