夜叉葉君彦の診療録・第一巻①

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白い蚕が翔んでいたので、咄嗟に両手を出して捕らえた。捕獲に成功した夜叉葉の腕は、手の中で蠢く羽の感触とそれを素手で捕った感動に鳥肌を立てている。



いつもならば、蛾が目の前を翔んでいても素手でとってやろうなどとは思いもつかない。
夜叉葉君彦(やしゃばきみひこ)は、医科大学を出て内科を目指すも天性の運の悪さが邪魔をして何故か毎度のこと叶わず、精神科医になることも気位が許さない。



限られた知人に頼まれた時のみ施術を行い、それ以外は民間療法の研究をするか酒を浴びるように呑むかという生活だった。
現在は、ある村で昔達磨屋だったというぼろの平屋を借り民間療法と独自の自然療法を織り混ぜた方法で、村医者をしている。


川の下流に属すこのあたりは、昔は部落とも呼ばれていたようなところで、今だって住んでいる者の暮らしは決して豊かといえるものではない。


余所の者は滅多に寄りつかず、村人も積極的に町へ出ることはない。隔離されたような雰囲気は未だにのこっていた。


夜叉葉が来た頃は、川の水はもっと濁っており、建つ家々は今よりも古めかしかった。もう村の入り口のところからどんよりとした暗い空気が立ちこめていたのだ。


夜叉葉が村に来てからは、医療のみならず、飲み水をはじめとした衛生面、道路の整備、数少ない子供たちのための学舎、農業に至るまで、ありとあらゆるところが彼の与える知識と助言によって改善された。


村人たちは、夜叉葉を神の御遣いかもしれぬなどと噂したいへん有り難がった。


当の夜叉葉は、俗世から離れ、この村で神のような扱いを受ける日々にどこか生温い居心地の良さを感じている。
夜叉葉に任せられる仕事は山ほど有り、疲れはするがこの田舎でのんびり暮らすには十分な稼ぎがあった。

これは、夜叉葉がこの村に初めて来た時に出くわした怪異についての物語である。

夜叉葉が村に来たのは、ちょうど3年前の夏である。ふらっと入った安い呑み屋で隣になった小汚ない男に「うちの村には、医者が一人もいないんだ」とこぼされたもんだから、酔った勢いで「俺は医者だぞ」「こんなに腕がいいのにめっぽう運が味方しねぇ」などとべらべら喋ってしまい、それなら驕るかわりにと、千鳥足のままこんな川の下流の村まで連れていかれてしまったのだ。

夜遅く暗い中、足場の悪い道中を二時間ほど歩き、村についた頃には、なんとなく酔いもさめていた。


「町から偉いお医者様がいらした」ということで、村の皆は祭りが始まったかのように夜叉葉の登場を大変喜んだ。若い男たちが声を上げて寄ってきて、御輿のように彼を肩に担いだ。


大袈裟に思うかもしれないが、無理もない話だ。隔離小屋として簡易に建てられた二軒のあばら屋には感染症やら骨折やら身籠った女やら患者がしっちゃかめっちゃかの鮨詰め状態だったのである。


ろくに包帯の巻き方も知らない女たちが白い布巾(ふきん)で鼻と口を覆い隠して、素人ながら懸命に看病していた。


一軒は、腐りかけた屍と死にかけの患者がいっしょくたに寝かされていた。真夏だったので、熱気で腐臭が立ち込めていた。
夜叉葉は若い男たちに、「簡単でいいからもう一軒小屋を立ててくれ。施術する場所がいる」と伝えた。私はその間に、村に二匹だけいるという馬の、足の速いほうを借りて町に器具を取りに帰った。


その馬は、とても足が速かった。暗く足場の悪い夜道もなんのこれしきとばかりに俊敏に走った。


夜叉葉は、自前の器具を木箱と革鞄に詰めるだけ詰め込み、馬に跨がって村へ戻った。夜中二時から出たが、懐中時計を見ると四時前にはもう着いていた。


村の男たちのほうも、夜叉葉がつく頃には小屋を一軒立て終えていた。


早朝から施術を開始し、二十八人いた患者のうち、二十三人は命はとりとめた。
残りの五人は、夜叉葉がどんなに手を尽くしても助からなかった。あの衛生下で今日まで生きていたのが奇跡であり、無理もない状態だった。

施術が全て終わる頃には、夕方近くになっていた。青かった空は、薄く橙色に染まりはじめている。

夜叉葉は勿論、彼の手伝いにあたった村の者らももうへとへとに疲れていた。汗が目に入るほどだらだらと流れ、着物も濡れて肌にべっとりと張りついた。

「夜叉葉先生、お疲れさんでした。皆、本当に助かってますぜ」
「感染症とみられる患者が大半だよ。死んだ者のうちの三人も同じ症状のようだ。高熱、扁桃腺の腫れや身体中の湿疹。片目だけ大きく腫れた者もいる」
夜叉葉がそう説明すると、喜条は否定した。
「あぁ、先生。あれは病では御座あせん」
「どういうことだ」


喜条は、何でもないような顔をしてこう言った。


「呪いですよ。二年前のことです。関係をもった男を次々と呪い殺すとんでもねぇ夜鷹(よだか)がおりまして、祈祷師やら陰陽師やらを呼んでそいつを、やっとこさやつけたんですがね」


そこまで言ったものの、男は口ごもった。


「やつけたが、どうしたっていうんだ」
「死に際に、その女、村全体に呪詛をかけやがったんですよ。永遠に村の皆が苦しむがいいと」
「なるほど」
「なので、この流行り病は終わらんもんです。もうずうっと患者は、絶えることなく、月に五人は増えていく。呪詛がかかってからは、患者が絶えたことがありません」


夜叉葉は、全く信じなかった。霊や怪談の類いのものは、一切信じない男である。何か他に原因があるはずだと思いつつ、なるほどとだけ相槌を打った。


「お前が何者かをきいてなかったな」
「おれですか?おれはこの先を行ったところの通りで草履を売っとります。喜条とお呼びくだせぇ」


「喜条、会話する体力のある患者をいるだけ施術室に呼んでくれ」
「かしこまりました」
「汗を流したいのだが、風呂はないか」


すぐに用意させますんで、と喜条はそそくさと出ていった。悪いやつではなさそうだが、なんとなく心底からは信用のできないやつだと、この時の夜叉葉はまだ一線をひいていた。


喜条の飄々とした態度は時折、素面に戻った夜叉葉を不快にさせることがある。

やっと一人になれたことで、安堵した夜叉葉が地面に腰をおろそうとすると、踏まれた毛虫が死んでいる。喜条が知らずに踏んだのだろうかと勘ぐった。


開けっ放しになった戸からは、赤い夕日が見え、ちょうど向こうの山に沈んでいこうとしていた。


「妙なところへ来てしまったものだ」と呟き、夜叉葉は静かに溜め息を吐いた。

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