『エターナルメモリー』を観ました

これはすごいドキュメンタリー映画でした。
凄いという言葉が正確かは分かりません。ですが、映像を記録していくことに表現をすることの意義を内包していくドキュメンタリーのジャンルとして記憶を失っていくアルツハイマーの男性をカメラで映し出すことによってドキュメンタリー映画による「記憶-記録」のファクターをこれでもかと炙り出していると感じます。

アルツハイマーを患ったアウグストはジャーナリストであり、チリの独裁政権時代に街に出てインタビューをしていく映像を収録するなどの仕事をしていました。

その映像が本編の中で、時折挿入されていきます。
彼の仕事、則ち"生きがい"がこのジャーナリストとしての活動であり、生きる意味であり、自分自身が生きてきた証として示す大事な要素となって提示されています。
彼の人生の終幕を垣間見るためには彼の生きがいとなった映像記録が人生を総括するために多弁に機能しています。

奇しくも記憶を失っていく男が、歴史を風化させないようにと記録映像を撮る活動をしてきたことが皮肉めいた出来事に遭遇しているとも捉えかねない。それほどにこの映画は記録映像と記憶というものを強烈に繋ぎ止めるものであるということを提示していきます。

アウグストの妻、パウリナが仲良く散歩している映像などは三脚を立てて綺麗に撮影がされています。
しっかりと映画のルックとして、静かに語り合う老夫婦の画がそこには収められています。

しかし家の中の映像や寝室の映像などは極めて小型のハンディカムのようなもので撮影がされているのではないでしょうか。画質やルックは打って変わって変貌します。

これまで老夫婦の美しい1日を切り取ってきたカメラワークから一転、残酷な現実を記録するための無機質なカメラとしてカメラは残酷なショットの数々を撮ってしまうのです。

撮ってしまうというのは、記録用に無造作に置かれているカメラのような画角やカメラ位置だからです。おそらくしっかりとした仕込みをせずにただカメラを回して、置いただけという印象です。そのショットの数々が映像に添加をすることの出来ない現実を見せようとしてきます。

次第に「家に帰りたい、君は誰なんだ?」「ここはあなたの家なのよ」というような言葉や会話を二人はしていくのです。
アウグストは目の前にいる人を妻・パウリナとして認知出来ないようになっていきます。
その言葉に対して、受け止め返答するパウリナもまた苦しそうです。

あるシーン。一度しか観ていないので判然がつかないのですが、アウグストが自分のことを書いたノートなのか本なのかを慌てていて、泣いている状態を捉えています。
「これは僕の人生なのに」
「苦労して一生懸命書いた本なので、記憶は残されていないが、この本は諦められない」と泣くのです。
「昨日、ここにあった本がわからないなんて」

そんなアウグスト。最後に何かを残そうとノートを書き連ねる。そこに今の自分のアイデンティティを封じ込めようとしているのかもしれません。
記憶がなくなっていく自分に対して、書いた記録こそが自分の生きた証明であり、これから生きる者に伝えたい何かであることは間違いありません。
生きている者は皆、こうして遺していきたいと願うのでしょうか。一冊の本だけでも、どこにもないと騒ぎ立てるアウグストから人間が遺すもの、メッセージのようなものを感じます。

パウリナはアウグストと「死ぬまで一緒にいたい」と語り、おでこをくっつけあって、肌を触るのです。
相手を視覚で認知出来なった時に出来る手段は、触角で触れあうことなのかもしれません。
その体温の温かさが「愛」を感じられる、伝えられる残された手段なのだと思います。
カメラはそんな場面さえも映します。人間が愛する人と残された限りある時間、そんな時にどうしてあげたいのか。そうした瞬間が無機質なカメラによって映されるのです。

劇的な音楽もなければ、綺麗なカメラワークでもないその映像が、誤解を恐れずに言えば美しいと感じます。
その美しさは生きることの尊厳を持ち続けた人の姿を映せているからなのだと思います。
そうしたことを自然と映し出そうとした作品と監督の意図に人の尊厳に対する丁寧な取り扱いや、記録と記憶の結びつけによる表現の可能性を信じている何かを感じることができます。

不勉強ながらマイテ・アルベルディ監督は1983年生まれの女性監督で、過去作のドキュメンタリー作品はあまり日本で公開されていないようです。
素晴らしい視座の持ち主であると感じましたし、もっとアルベルディ監督の作品を見たいと感じました。

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