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『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』

シネマート新宿で『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』のリバイバル上映を鑑賞してきた。

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『バッド・ルーテナント』は2010年のヴェルナー・ヘルツォーク版を映画館で観ていた。大学の卒業のタイミングで吉祥寺バウスシアターで見た。こちらも大好きな作品だった。ニコラス・ケイジの狂演と、何故かイグアナのショットが何度も挿入されるヘルツォーク節も堪能出来た。

アベル・フェラーラ監督版の『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』はVHSのレンタルで観た記憶がある。DVDレンタルはされていなくて、観たくてもVHSを借りるしかなく、内容もうろ覚えだった。

映画館でやるということで、とても心躍った。
何故、今1992年の『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』をやるのか。
SNSが全盛となった現代に、狂気が立ち込める予告トレーラーを観て、独特のいかがわしさと、リバイバルされることの嬉しさを感じる。今、生み出される作品にここまで堕落した空気感を纏う作品ってなかなかない。映画を観て堕ちたい時もある。

大きなシネマート新宿のスクリーン1。午前中の回、客入りは決していいとは言えない。パラついた客席。それがいい。
平日の午前中にわざわざこの映画を観にくる背徳感と暗闇が気持ちいい。シネマートのスクリーン1が好きである。

あらすじはこうなっているが。

ニューヨークの警部補LTは、よき家庭人としての顔も持ちながらもドラッグやセックスに溺れ、警官としても人間としてもあるまじき行為に明け暮れる男。ある日、教会の尼僧が何者かに強姦されるというむごたらしい事件が起こる。LTは野球賭博の借金をカパーしようと懸賞金5万ドル目当てに躍起になるが、自分を犯した犯人を許そうとする尼僧の気高さに触れて混乱に陥る。自らの悪行と崇高な信仰心の間で揺れるLTはある選択をするが……。

何度もスクリーンを前に圧倒された。
ハーヴェイ・カイテルの芝居なのか、嘆きなのか、泣きなのか。表現の域を超えている何かを見せつけられている。
ドキュメンタリーか、劇映画かといった類の分け方ではない、なんだかとんでもないアートを見せつけられているような。
見せつけられている。シナリオや構成が巧みなわけではなく、ただただ堕ちていくLTをこれでもかとスクリーンに叩きつけているような。感情移入をさせるわけでもなく、ただ常識を逸脱した酷いヤツと断罪するわけでもなく、ただそこにハーヴェイ・カイテルの凄みが降臨している。

ソフトではぼかしがかかっていたというが、今回はぼかしがなかった。
フルチンで、ドラッグがキマって左右に揺れている。カラダが謎に出来ていて凄まじい存在感。
これはどういう演出をしているのか。はたまた即興なのか。摩訶不思議だが、ヤバいエネルギーで満ちている。

これほどまでに酷い行いをしているLTにキリスト教が密接に絡む。
イエス・キリストは救うのか、救わないのか。
セックス、ドラッグ、ギャンブル、宗教。業と業と業が混ざり合いながら、ハーヴェイ・カイテルは泣きなのか、怒りなのか、一言では判然がつかない嘆きを見せる。
業を混ぜ合わせたとき、これまた言葉にし難い何かが浮かび上がる。

観ていてこんなにもしょうもない男なのに、自分の心のどこかにLTのような何かがいるような感覚がある。
突き放せない。自分のしょーもなさと、神を結びつけたくなる瞬間がある。
幻覚なのか、そうではないのか。目の前にいるキリストと対峙し、映画ならではの飛躍と文法をもつ。
なまくらさんが宗教画のような構図から、一転ゲリラ撮影のような画に変わるのがしみったれていいとポストしていた。
本当にそうだ。しみったれている。キマった構図、神と対峙しているところから、一気に現実に放り込まれる。
しかしこのしみったれた気分がやっぱり自分にもある。
これは自分だとは思わないけど、こんな気分になる時がある。

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