『正義の行方』を観ました。

東風さんの試写会で『正義の行方』を観ました。
傑作!と声高々に言ってもいいものだろうか。そんな想いに駆られるほどに心に深い爪痕を残してくる作品です。
画のクオリティも圧倒的で、日本のドキュメンタリー作品の中でも屈指の仕上がりとなっています。編集・構成の見事さに加えて、芳醇な色彩の豊かさに

”正義”という迷宮に入り込みます。

映画.comのあらすじを転載すると

2022年4月にNHK BSで放送され、令和4年度文化庁芸術祭・テレビドキュメンタリー部門大賞を受賞したBS1スペシャル「正義の行方 飯塚事件30年後の迷宮」を劇場版として公開。

1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が行方不明となり、同県甘木市(現・朝倉市)の山中で他殺体となって発見された飯塚事件。94年に逮捕され、DNA型鑑定などにより犯人とされた久間三千年(くま・みちとし)は死刑判決を受け、08年に刑が執行された。しかし、執行の翌年に冤罪を訴える再審請求がなされ、事件の余波はその後も続いている。本作では飯塚事件に関わった弁護士、警察官、新聞記者がそれぞれの立場から語られる「真実」と「正義」をもとに、この事件の全体像を描きながら、日本という国の司法の姿を浮き彫りにしていく。

監督はNHKディレクターとして死刑や犯罪を題材にした数多くのドキュメンタリーを手がけ、樹木希林を追った「“樹木希林”を生きる」を監督した木寺一孝。

とあります。

つまり「真実」と「正義」についてのお話であります。
真実という言葉の取り扱いも、正義という言葉の取り扱いもドキュメンタリーを生業とする人間ならば注意しなければならない言葉でありながら、鑑賞しているとその二つのテーマが凄まじい揺らぎを持って波打ってくる。

よく事件化した事案に対して20年以上の時間が経過していたりするものが、歳を重ねた当事者たちによる証言を集めてルポタージュされ書籍化されることがよくあります。

プロレスの世界でもそんなことはよくあって、橋本vs小川の1.4事変に代表されるように「誰が黒幕だったのか?」などの見解が少しずつ浮き彫りになっていきます。

人それぞれに抱く印象や真実は異なり、何を真実と捉えるかはその証言集を読んだ人間に委ねられるような。
そんな事案は世の中によくあります。

本作はそんなルポタージュを元に圧倒的な取材力と執念で映像化した、凄まじい力作であると感じます。

「真実」と「正義」というものが時間が経過することによって疑念に変わっていく。
鑑賞していくとわかるのですが、事件当時の「真実」と「正義」と
現在の「真実」と「正義」は時代の変化と共に変わっています。

事件当時の映像も流れている本作。その映像は当時の正義感と空気を多弁に映し出しているように思えます。
編集や構成、その流れが当時の正義感によって進行していく。SNS、インターネットがない時代にその事件を探究しているのはオールドメディアであり、その映像からは多面的な視座が失われているような印象がします。どことなく「決めつけ」が匂うのですね。事件解決のフィニッシュが決まっていて、その流れに向かっていっている。しかしそのために確証できる要素の強度は実はそんなに強くない。証言のソースも、化学的な根拠も当時ではその分母が圧倒的に少なかったように感じられるのです。検証する材料の少なさや、検証材料の弱さを断片的にかき集めて集合させたときに出た判断は犯人であると特定した久間三千年の死刑判決。

決着をした警察側だった人間たちの証言はいちおうに安堵感を示したものばかりでしたが、一部の人たちには疑念の心が残っています。
ですが、証言をしている人たちが語る安堵感という言葉はインタビューを見る限りあまりスッキリしているようには思えない印象です。
どこか歯の奥にカスが詰まっているような、そんな気持ち悪さを抱えているような。そんな印象を受けます。
安堵感というのは早くこの事件との関わりに決着をつけて解放されたかったというような思いを感じます。
しかし次第に久間三千年が犯人ではなかったのではないかという思いにも苦しめられていたかのような表情を見せます。

この映画の中で、DNA鑑定による事件解析が出てきます。
当時のDNA鑑定に不備があったのではないか?と徹底的に調査をしていく。
検出された画像データの比較などこのドキュメンタリーは映像であるからこその説得力を持って真相を探ろうと試みています。

観ていくうちに正義が揺らいでいきます。
そして真実の行方も揺らぎ続けていきます。

この映画は大きく二部構成になっていて第2部には西日本新聞社の貴社の人たちが出てきます。
この人たちは事件発生からしばらく経過してこの事件に注目し、新聞に連載欄を持つことで取材を続けていました。

映画に出てくる人たちを並列的にみても、この西日本新聞社の人たちが一番ニュートラルな立場でこの事件に向き合おうとしているのが分かります。
事件経過からかなり時間が経過しているということもありますが、様々な知見からこの事件の検証、解析をしようとしているのが分かります。
ここに新聞記者としての矜持が加わることで、正義を振りかざすわけではないが、それでも正義感を持ってこの事件を見つめようとしている人の視座が映画内に加わっていくのが感じられるのです。

当事者の人よりも当事者ではない人たちの方がこの事件について冷静沈着な視座を持っている。正義のナタを振るうのではなく、事件を風化させないため、今もなおこの事件は本質的に未解決であるという姿勢、つまり彼らの正義がここで映画を動かしていきます。

様々な立場があり、その立場によって注ぐ視座は変化します。
正義感も、ふるう正義も立場の違いによって大きく異なり、その異なる正義のぶつかりの末に下された司法の審判。
その結末に疑念を持つという正義。そしてそれをもう一度粘り強く検証しようとする正義。

私は自分にどんな正義と視座を持ち合わせていなくてはならないのか、とても考えさせられる、余白のある映画だったように思えます。
多面的に捉えた映画の中で、その多面から感じられる自分の視座というものを日々考え養っていかなくてはならないのだなと思えました。

4/27より公開。必見だと思います。

この記事が参加している募集

映画が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?