私はこうして社長となった。 ~壮絶な過去と向き合い今何を思うのか~
「今日から、あなたはここに住むんだよ。」
突然母から告げられた一言で、私の人生は変わった。
私は、1987年、神奈川県横浜市に長男として生まれた。
特に贅沢をすることもなくごく一般的な家庭で幼少期を過ごした。
毎日満足にご飯を食べ、同い年の子達に比べ少しばかり体の大きめな子どもに育った。
父の気性の荒さはあったものの、
両親、そして私を入れた兄弟4人、特に不自由なく"幸せ"を感じていた。
1994年、私は、横浜市の小学校へ入学。
その3年後、【父の勤めていた会社が倒産した。】
小学4年生の私にはそれがどのくらい大変なことなのか知る由もなかった。
すると親の田舎のある秋田県へ引っ越しすることとなったのだ。
着いてみると、そこは横浜市とは真逆と言っても過言ではないほど、田川が広がり緑が映えるのどかな街の風景が広がっていた。
友達との別れは悲しいものだったが、
新生活を楽しみにしている自分も微かにいたのを覚えている。
しかし、その生活は決して"幸せ"と呼べるものではなかった。
秋田県の小学校に転校するやいなや、同級生からの【いじめ】にあった。
靴をゴミ箱に捨てられたり、机に落書きされたり、
ものを盗まれたり、悪口を言われたり。。
私は完全に異物だったのだ。
さらに追い討ちをかけるように、
父の失業の影響を徐々に感じていく。
食事は以前よりも質素になり、小学生ながら、家庭の苦しさを悟ったのだ。
両親は必死に隠していたのだろうが、感の鋭い私にはお見通しだ。
いじめに関しては、両親や兄弟を不安にさせまいと、自分の中に閉じ込め、3年間耐え凌いだ。
2000年、中学校へ入学する。
「友達を作ろう!!」
私は比較的メンタルが強い。今でもそこは変わらない。
過去のことは忘れ、次に進もうと決め、部活動は野球部に所属した。
すると仲間ができた。
素直に嬉しかった。
やっと希望を抱き、暗闇から抜け出せると思った。
しかし、入学から4ヶ月後の8月、父の転勤が決まったのだ。
一家で横浜市へ戻ることとなり、中学の仲間と別れることになってしまった。
あの強かったメンタルも徐々に揺らぎ始めると同時に、横浜市の中学校は荒れ果て私の心はめちゃくちゃになっていた。
ある日、妹がいじめられていると知らされる。
社会や大人に対する不信感
過去から自身の置かれた立場
様々な感情を背負いながら、妹や周りでいじめられている仲間を守ることを理由にし、中学生の私は、
「強くなること」=「暴力」=「正義」
と、思い違い、それが次第に【非行の道】にあゆみを進めることになった。
授業中に仲間と学校のプールに無断で入ったり、
中学生で原チャリ通学など校則はまず無視。
隣やその他の地区とは、毎日のように揉め事を起こし、
中学3年生からは暴走族に入るまでに。
昼は学校に行かず仲間と遊び、夜は集会、
集会がなければ暴走族OBから呼び出しでクラブへ出入り、
他の暴走族やギャング、チーマーとの対立も絶えなかった。
まさに今話題の「東京リベンジャーズ」のリアル版だ。
ナメられる訳にはいかず、揉め事ばかり起こしていた為、
ヤクザに追込みかけられたり、放火、拉致られることもあった。
それはそれは多くの人を傷つけ、迷惑をかけ、人として最低最悪の振る舞いであったことは、当時その道を走り続けていた私には気がつくことはなかった。
そして中学校を卒業し、高校に入学するも、自主退学。
そして、2004年、【両親の離婚】、家庭が崩壊した。
「今日から、あなたはここに住むんだよ。」
当時16歳、私は強制的に里親の元に預けられることになる。
幸いにもすぐに見つかり、またも秋田で生活することとなった。
逃げ場のない何もない田舎、頼れる大人も知り合いもなし。
「人生終わった」
なんで俺だけ、と心の中では常にその言葉が巡り、いつでも一人で戦ってきたその心も限界に近づいていた。
とはいえ働かずには生活もできず、間も無くして里親が経営する会社で仕事をすることになる。
しかし悪夢は終わらない。
仕事中に【癲癇(てんかん)を発症】し、事故に巻き込まれ全治3ヶ月の大怪我をしてしまった。
入院だ。
季節は変わり、窓の外には雪が降り積もる。
秋田の寒さは、より一層孤独感を強くさせた。
それからは、また仕事に復帰し、真面目に働いた。
町の方は、よそから来た柄の悪い私にも温かく、米や野菜を届けてくれたり、積極的に声をかけてくれたりと、人の心に多く触れた。
友人もでき、知り合いも増えた。
少しずつ心を取り戻し、笑えるようになってきたのだ。
《そんなある時、ある一つの出来事が私の人生を大きく変えることとなった。》
私は、町内にある児童養護施設でよく食事をする機会があったのだが、そこには見た目の怖い私に臆することもなく兄のように慕ってくれる男の子がいた。
その子はまだ小学生にもならないくらい小さな子である。
ある日私は、いつものようにちょっかいを出しながらふと聞いてみた。
「お前はなんでここにいるんだ?」
一周の沈黙の後、男の子が口を開いた。
するとその返答は、脳内を凍り尽くされ、軽々しく聞いてしまった無神経な自分を責め立てるようなものだった。
どうやらこの子の両親は、薬欲しさに自分を人に売ったのだという。
???
信じられない。
そんな人の心を失った大人が存在することに、とてつもない苛立ちを感じた。
そして後にそれは社会が原因でもありうることも知った。
この子はどんな思いなのだろう。
まだ幼いながらに、私以上に壮絶な経験と心のダメージを負い、これから社会や大人を人を頼ることはできるのだろうか。
その日以来、その男の子の言葉が繰り返す呪文のように頭から離れなかった。
それから私は、来る日も来る日もその男の子へ話しかけ、遊び、笑顔を見るたびほっと一安心する。
そして私は、この子を預かっている「児童養護施設」に関心を抱くようになっていった。
語弊があるかもしれないが、実の親からの愛情を満足に受けられない子どもたちの親代わりとして真剣に向き合い、優しくも厳しくもその子たちからしたら本当に「親」なのだ。
子どもたちにとっての、頼れる大人、帰れる居場所、それが児童養護施設だった。
私は、自分の生活すらままならない状態の中、これからの自分の人生について考えた。
考える時間は十分すぎるほど残されていた。
「東京へ行こう。」
2007年11月、20歳。
私は第二の故郷、秋田を離れ、東京で自分の人生の新しいスタートを切ることを決意した。
別れの時、男の子は小さな手で私の手をギュッと握りしめ離さなかった。
そして誓った。
「これまで支えてくれた人達に恩返ししたい!何としてでも、この夢を実現させたい!」
私を引き取ってくれた里親
人の温かさを教えてくれた秋田の人々
気軽に話せる気を許しあった友人
良くしてくれた施設の方々
そしてそこにいる子どもたち
私はお陰で、『夢』を抱くことができた。
それは希望となって、生きる理由になった。
自暴自棄になっていた私を蘇らせてくれたのは、私が嫌いだった「人」だったのだ。
人は関わる人で変わる。
そう強く感じた、私の人生のほんの数年の秋田生活だった。
久しぶりの東京は快晴からのスタートだった。
お金も無かったので、少ない貯金を握りしめ、夜行バスで上京した。
東京の「池袋」に到着し、特に大きく変わっていない東京の風景に安堵とワクワク感を感じた。
契約したボロアパートは想像のさらに上をゆくほどの悲惨さ、、、
半地下で雨が降れば床下浸水
わずか4.5畳で、ガスコンロもレンジもなし
風呂トイレは一緒だが完備されていたのは唯一の幸いだ。
それからは、とある不動産会社に入社。
高校も出ていない、中卒で現場系の仕事しかしてこなかった自分にとって、スーツをビシッと決めて、綺麗なオフィスに出社することは憧れでもあった。
しかし、身の程を思い知らされることとなる。
当時、消費税が5%であることは知っていたが、計算ができない。
漢字が読めない。
履歴書も書けない。
ビジネスマナー?
社会人とは??
よくもまあ無計画に飛び込んできたもんだと、自分の行動力を褒めつつも、呆れたものだ。
ただし、周りに追いつこう、ビッグになろうと必死に勉強し誰よりも努力した。
約3年が経ったある日、仕事の真っ最中に、またも持病となった癲癇(てんかん)が発生した。
突然の会社からの解雇通知。
職を失った。
アルバイトなどで食い繋ぎながら、
半年後の2010年10月、自分の身は自分で守ると決め、個人事業主として独立。
(独立の屋号は、後に第一号法人の社名となる)
取り扱った商品は、「求人広告」であった。
不動産時代に得た人脈や、神奈川の知人や友人さまざまな人の手を借りながらも、多くの実績を築き、貧乏生活からは完全に脱却することができた。
私は東京に上京してからも、秋田の人々を忘れることはなかった。
求人広告を選択した理由も、児童養護施設の子どもたちの就職が気がかりだったことが挙げられる。
調べていくと、大学進学率は一般に比べ極めて低く、
就職にあたっても、18歳で自立を求められる子どもたちは、
「仕事」と「住居」が同時に求められる。
そうなると、必然的に寮付きの求人を探すことになるが、当時、寮付きの求人には過酷な仕事も多く、秋田の児童養護施設の出身者の方も劣悪な環境にいたことを知らされていた。
そこで自分がその子たちのために何ができるかを考えたときに、
「仕事を作る」ことだと考えた。
私はその道を極めようと、毎日アポイントを詰め込み、気がつくと、年間数千万円を売り上げる営業マンに成長していた。
もちろんそこには様々な仲間との出会いと別れを繰り返して。
しばらくして2016年、個人事業主の屋号を法人化、第一号法人を設立した。
苦労は多かったが、また新しい人との出会いやチャンスがあったり、失敗すらも経験として大きな財産になった。
2017年、突然叔父から、私の境遇と現在を知って連絡をしてきてくれた。
叔父はもともと2010年よりNPO法人の代表理事を務めていた。
そのNPO法人を自分が守りたい人のために使うといいと、譲ってくれるというのだ。
思いも寄らない話に、深く考えた後、譲り受けることにした。
それがまさに「特定非営利活動法人 夢の宝箱」の誕生だ。
その後は今日に至るまでに、人材会社、運送会社、リフォーム会社と3社増やし、合計5社を運営するグループ企業となった。
現在、ソーシャルビジネスを構築している段階ではあるものの、
児童養護施設をはじめ、社会的養護の必要な子どもたちを救うための
寄付活動やプロジェクト、講演会など取り組みの幅を広げている。
数名ではあるが、グループ内で施設出身の青年の受け入れも取り組み始めており、
2022年は「リービングケアプロジェクト」として本格的に「職親」としての役割と、様々な企業への周知活動が始まる。
【父親の失業】
【少年期のいじめ】
【数々の非行】
【両親の離婚】
【癲癇(てんかん)の発生】
様々な苦難を乗り越えてきた先に得た人とのつながりや築いてきた組織。
そんな私が今伝えたいこと。
『誰にでも夢を持つ資格や可能性がある』
”夢”
誰しもが一度は頭の中で描いたことがあるのではないだろうか。
夢を持つことは希望に変わり、
その希望は、その人に強力なインパクトを与え、大きくその後の人生に関わってくる。
実は、秋田の話のように、家庭の都合、社会の都合により、そのような状況にいる子どもたちや、そのまま社会に出る若者がたくさんいる。
その子どもたちや若者の多くは、過去に苦しみ、
大人や社会への不信感を持ったまま、今も孤独と戦い続けているのだ。
そんな社会や大人が作り出してしまった状況が「夢」や「希望」を失わせている事実を私たち大人がもっと認知することが必要ではないだろうか。
それを社会的責任として捉え、考え、行動することによって、
ひとりでも多くの子どもたちの人生を、未来あるものにできると私は信じている。
子どもたちの人生そのものを変える事は出来ないかもしれない。
しかし、子どもたちが変わろうと思う “きっかけ” を作ることはできる。
私のように、学歴が無くても、病気がちでも、家庭に問題があっても、貧困だったとしても、諦めなければ “チャンス” はある。
私はこれからも、その子どもたちに背中を見せ、
私に変わるチャンスを与えてくれた方々への感謝の気持ちを忘れず、
与えられる側から、与える側となり、
胸を張って子どもたちの未来に恩返しできれば嬉しい。
まずは「知る」ことから。
人は関わる人で変わるのです。
特定非営利活動法人 夢の宝箱
代表理事
土濃塚 達也
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