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【自己紹介】私はこうして社長となった。-壮絶な過去と向き合い今何を思うのか

こんにちは!
NPO法人夢の宝箱代表理事の土濃塚達也です。
いつも当社のnoteをご覧いただき、
ありがとうございます!

NPO法人夢の宝箱は、
神奈川県を拠点に社会的養護を必要とする若者の自立を支援する団体です。
児童養護施設を退所後の就労支援をはじめ、
心のケアや社会的養護を考えるセミナーなどを
行っています。

この記事では、私自身の生い立ち――いじめ、両親の離婚、里親との暮らし、病気、独立――
を振り返ると共に、
本法人の代表理事を担うまでの経緯を
紹介させていただければと思います。

つたない文章で恐縮ですが、
どうぞよろしくお願いいたします。

幸せな家庭と父の倒産

私は1987年@月、神奈川県横浜市で
4人きょうだいの長男として生まれました。

毎日満足にご飯を食べさせてもらい
同い年の子達に比べると、
少しばかり体の大きめな子どもに育ちました。

特別な贅沢はありませんでしたが、
家族6人、不自由なく"幸せ"を感じていました。

しかし私が小学3年生になると
父の勤めていた会社が倒産
急遽、親の実家のある秋田県へ引っ越し
転校を余儀なくされました。


転校先のいじめ。そして非行へ

秋田県の小学校に転校するやいなや、
私は同級生からいじめの標的にされました。

靴をゴミ箱に捨てられる
机に落書きされる
ものを盗まれる
悪口を言われる

さらに追い打ちをかけるように、
家庭の食事がこれまでよりも質素になりました。
私は小学生ながらに
「父の失業による家庭の苦しさ」を悟ってしまいました。

誰にも言えずいじめを耐えた小学生時代。
それでも過去を引きずらず
次に進もうと決めて中学生になりました。

入部した野球部では念願の友達ができ
本当に嬉しかったのを覚えています。

しかし、中学1年の夏
またしても父の都合(転勤)によって、
横浜へ引っ越すことに。

やっとできた友人との別れ
転校先の学校は荒れ果てていて
妹もいじめの標的にされてしまいます。

気丈に振る舞いたくでもできない。
心が段々と揺らぎ始めます。

この時私は
自分や妹を守るためには
「強くならなければいけない」と考え、
「暴力」を正当化し始めます。


そして次第に、
非行の道を歩み出してしまいました。


「なんでこんなに不幸なのか」

私の日常は大きく変化しました。

授業中に仲間と学校のプールに無断で入る
校則を無視して学校へ原チャリ通学
毎日起こる喧嘩や揉めごと

中学3年生になると暴走族に入り
更に非行が加速します。

他の族やギャング、チーマーの恨みを買い
自宅を放火、拉致られることもありました。
高校に進学するも、自主退学。

そして人生の岐路の1つとなった16歳。
両親が離婚したことをきっかけに
里親との暮らしが始まりました。

暴力ばかりの日常は
一瞬にして山と畑しかない秋田の田舎に
変貌したのです。

この時の私の考えは1つだけ。
「なんで俺だけこんなに不幸なんだろう」
ただこれだけでした。


児童養護施設の男の子との出会い

とはいえ働かずには生活もできないため、
里親が経営する会社に勤め
建築の現場仕事をしていました。

他所から来た柄の悪い私にも
秋田の方々は優しく迎え入れてくれました。
温かい人の心に触れることで
私の心も段々と穏やかになっていきました。

また私は、町内にある児童養護施設で
食事をごちそうになることがありました。

そこにはいつも
私を兄の様に慕う小学生の男の子がいました。
ある日彼に尋ねました。
「どうしてここに来たの?」


少し口ごもったあと、
「両親が、薬欲しさに自分を人に売ったから」


その時の衝撃は、今でも忘れられません。
軽々しく聞いてしまった無神経さを恥じ、
大人に対する強い苛立ちも感じました。

そして私は
彼とのやり取りをきっかけに
児童養護施設にも関心を抱くようになりました。


「夢の宝箱」という天命

貯金もなく、学もなかった私ですが、
1つの夢を抱くようになります。

「児童養護施設にいる彼らを
励ますことができるような
説得力のある男になりたい」

そして20歳の冬に一念発起し、
秋田から単身上京。
人生の再スタートを始めます。

でもやはり、現実はそう甘くない。
不動産会社に就職するも、
自分の身の程を思い知らされます。

漢字が読めない
消費税の計算方法が分からない
履歴書が書けない
ビジネスマナーが分からない

契約したアパートは半地下で
雨が降れば床下浸水は当たり前。
心も体も休まる時間はありません。

それでも私が揺らがなかったのは
叶えたい「夢」があったからです。

持ち前の切り替えの早さと努力を重ね、
上京から3年間、不動産会社で勤務しました。
しかし持病の癲癇(てんかん)発作で解雇されます。

それを機に私は
求人広告を取り扱う「個人事業主」として
2010年に独立することを決めました。

多くの方々に助けていただきながら
立ち上げから6年後に法人化を果たします。

夢に向かい、企業経営に精を出していたころ
偶然に参加した親戚の新年会で
叔父に声をかけられました。

「NPO法人を畳む方法知っているか?」

このNPO法人こそが
私が代表理事を務める
「夢の宝箱」でした。

実はこの「夢の宝箱」は
元々私の知り合いが立ち上げたNPO法人で
児童養護施設や老人ホームで
手品を披露するなどしていた団体でした。

初代理事長が他界したあと、
私の叔父が2代目を引き継ぎましたが
様々な理由から継続が困難になり
廃業手続きをしようとしていたところでした。

私にとっては「棚から牡丹餅」。
叔父に自分の生い立ちや夢を話すと
「やってみたら」と背中を押してくれたのです。

天命を受けたかのように、
私は夢への大きな1歩を
踏み出すことになったのです。


与えられる側から、与える側へ

現在私の運営する会社は
人材サービス業、建設業、Webマーケティング及びWeb制作事業と増え
計5社のグループ企業になりました。

そしてNPO法人夢の宝箱は
社会的養護の必要な子どもたちの支援団体として
寄付や講演会、居場所事業など
着実に活動を広げています。

元々私の人生に
光はありませんでした。

しかし抱いた「夢」1つが
私の人生を照らし
私の希望となってくれたのです。

与えられる側から、与える側へ。
関わって下さった方々の愛に感謝して
子どもたちの未来に「恩返し」を。
それが私の生涯かけてやりたいことなのです。


最後まで読んでいただき
本当にありがとうございました。

2024年3月 横浜市中区の山下公園での1枚 

土濃塚達也
1987年 神奈川県横浜市生まれ。
LCVグループ CEO、NPO法人夢の宝箱 代表理事。
「誰にでも夢を持つ資格や可能性がある」をモットーに、神奈川県を拠点とした企業経営、児童養護施設出身の若者の支援活動を行う。3児の父親の顔も持つ。


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