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60歳過ぎたら持ちたいポジティブな死生観

「もう死の順番は回って来ている」
いきなりネガティブな印象を与えてしまったかも知れないが、家族の中で次に死ぬ年齢的な死の順番だ。
60歳を過ぎて最後の人生を歩んでいるのだから、そろそろ死生観についてのビジョンも考えておく方がよさそうだ。


ポジティブに考えたい死生観

60代になって急に増えたと感じているのが同年代の訃報だ。
学生時代に同じ部活動をした親友の訃報が突然来た。
その他にも後輩や社会人になってからの友人など、懇意にしていた人の訃報が舞い込んでくるようになった。

友人の死が切っ掛けになった死生観

いつものように車旅に出ていた日だった。
車中泊をしようと思い、少し山の中へ入ってシーズンオフになった観光地の駐車場に車を止めた時だ。

数年声を聞いていない友人から電話が掛かってきた。
もう一人の友人が昨夜亡くなったという知らせだった。

耳を疑った。

入院したというようなことも聞いていなかったからだ。
「昨夜風呂に入った時に倒れてそのまま逝ってしまったようだ」
その友人の電話の声も暗かった。

「最後のお別れをしてやってほしい」と亡くなった友人の弟からも電話が入った。

通夜の日、最後のお別れをするために葬儀を執り行う会館へ出向いた。
合わせた手に数珠を持ち、友人の顔を見ながら心の中で話しかけた。

「なぜそんなに早く逝ってしまったんだ」と言うと、「少し早いが先に逝かせてもらったよ」と返事をくれたように感じた。
「俺の分まで長生きしてお前が死んだらこれから世の中がどうなったのか話を聴かせてくれ」とも聞こえた気がした。

たった一分にも満たないほどの別れだった。
人はこんなにも呆気なく逝ってしまうんだと思った。

家族の死生観

死というワードがあまりにもネガティブなイメージなのか、同年代の人とは死について話したことがない。

私は家族を3人見送った経験がある。

93歳で亡くなった祖母は大晦日に餅をのどに詰まらせ、救急搬送されたことがあった。
その時は救急車が来る前に家族がその餅を取り除き一命を取り留めたお蔭で、一週間の入院で家に帰ることができた。

祖母は「餅を取らずにいてくれたら楽に死ねたのに」と家に帰って一番に言った。

「死なないでくれ」と必死に願った家族とは裏腹に本人はこのまま逝かせてくれと思っていたのだろう。

そんなこともあり母には認知症を患う前に聞いたことがある。
「もし祖母のようになったら何を望む?」と聞くと母は「何も望まない」と言った。
「何も食べられなくなってまで生きたくはない」とも言っていた。
私は、母は延命治療まではしてほしくないのだろうと理解した。

もし自分がそうなったとしても同じことを言うだろうと思った。

ポジティブな死生観を探す

定年退職より前に同僚が亡くなって葬儀に参列した時、お坊さんが話された言葉が今も記憶に残っている。

「人の命は儚いからこそ尊い」
「そして尊いからこそ大切にしなければならない」

これまでは宗教に微塵の興味も示さなかったが、せめて死生観は持っておきたいと思った。

自分のために必要になるだろうと思ったのだ。
既に順番が来ているからだ。

今は最後の人生を精一杯生きるためにも死生観が必要だと思っている。
これまでは宗教的な話や宇宙がどうとかといった話は信じようとはしなかった。

しかしそれでは身も蓋もない。
自分なりに少し知識を入れ自分の死生観に取り入れようと思ったのだ。

それもポジティブな死生観を作り上げるためでもある。

私の家は代々高野山真言宗だ。
先ずは弘法大師(空海)の本を読んだ。

本を1〜2冊読んだところで何も変わらないだろうが読まないよりはいいだろう。
車中泊旅で神社仏閣を訪ねてはその歴史や成り立ちに興味を持ち調べることもした。

宇宙についても自分に都合のいい宇宙観を持つことにした。

自分の死をポジティブに受け止めるための情報を好んで信じることにした。
例えば輪廻転生だ。
人は死ぬと肉体も魂も残らず消えてしまうのでは死生観に繋げようがないからだ。

これまで信じてこなかった宗教的教えや宇宙的不思議話を、都合よくポジティブな死生観に利用しようとしているのだから優柔不断と言われても仕方ない。

しかも我が家に来てくれる高野山真言宗の僧侶の話だけでなく、あらゆる宗派、宗教の情報をつまみ食いしているのだから、その僧侶にだけは「頼むからこのNoteは読まないでください」と願うだけだ。

あらゆる情報がNETで飛び交う現在はそんな私に都合がいい。
都合のいい死生観に繋がる情報が拾い放題だからだ。

しかしこれまで何十年も信じてこなかったことを、そう簡単に受け入れることができるはずもない。
あくまで私が優柔不断なのは人からそう見えるだろうというだけだ。
優柔不断も営業職で生きる術だったに過ぎない。

自身の自覚では頑固という他ない。

僧侶の話も「なるほど、そうですか」と頷いてはいるが、心の中では「そんなはずはないだろう」と思ったりしていたからだ。

だがこれだけ多くの身近な人の訃報を聞く年齢になっているのだから悠長にはしていられない。

死の順番も回ってきているのだから。

#死生観 #定年退職 #60代 #人生 #人生観 #生き方 #第二の人生

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