「当たり前」というハードル
「人より何かが優れている」とか「人よりもこれはうまくできる」とか、そういう思いは「自己肯定感」ではありません。他人と比べて何かで勝っている、というのは、結局自分という人間を見てなくて、他人との比較でしか自分を推し量れていない証拠。ある意味「ドングリの背比べ」に過ぎない。
「あたしよりも得意な人もいるけど、あたしもこれが得意」とか「この仕事をしてる自分が好き」とか、そういう自分を増やしたいし、見つけたい、って、あたしは思う。
けど人間が生きていくのは「他人と共に作る」社会。「あたしはあたし」と言ったところで、周りから「あなたはこういう人」という評価を得たら、なかなかそこから抜け出せない。
「自己肯定感」という言葉はあまり好きじゃないけど、誰かがいて、自分がいて、お互いをフォローし合える時、あたしは「良かった」って、心から思う。仕事をしてて、「助かったよ」って言われるのは、何より嬉しい。
逆に、「結芽ならこれくらいはできて当然」とか、「結芽はこれが当たり前」だとか言われると、自分の頑張りが伝わらなかったのかな?って、正直ものすごく切なくなります。
先日、仕事で大きなミスをして、取引先さんに大変な負担をかけてしまいました。あたしの上司は「自分が泥をかぶる」みたいな事を言ってくれましたが、今回は完全にあたしの責任。なので「自分で取引先に謝罪して、ゼロからになりますが信頼関係を取り戻したい」って話しました。
言葉で「すみませんでした」と言って頭を下げるだけなら誰でもできる。だから、謝罪の思いと改めてプロジェクトを進めたい旨を、直筆の手紙にしたためました。
先方に時間を作っていただき、統括とお会いして、まずは言葉で謝罪。その上で手紙をお渡しして「読んでいただければ幸いです」と伝えたんだけど、統括から「結芽さんは文章が得意だからね」って。
もしかしたら、統括としては「誉め言葉」のつもりだったのかも知れません。でもあたしには、「文章という『小手先』で取り繕う」という感じにも受けとれました。
「文章が得意」の裏にある、勢いで書いた後に少し時間をおいて読み返す、適切な言葉遣いか確認する、何度も下書きを手直しする、震える手で直筆、最後の方で誤字脱字があれば最初から書き直しetc.
そういったあたしなりの「心遣い」そして何度も壁に頭を打ち付け、自分の手を叩き、読み返しては落胆し、辞書に何枚もの附箋を貼り付けて、それでも納得できないままタイムリミットが近づいて、とりあえず現状できうる限りのものを仕上げる。
ある意味「子どもを産む」ような苦労をして、やっと書き上げた手紙。拙い文章だったとしても、乱筆乱文だったとしても、あたしも人間だから、評価をして欲しかった。拙い文章だったとしても、そこまでやっとたどり着いた事、やっぱり少しでも感じて欲しかった。
一応、真剣に読んでいただけたみたいだけど、では手紙に対する返答は?特に何もありませんでした。「自己肯定感」と「自己満足」は違います。人は他人の中で生きる以上、何らかの「評価」を欲しがるもの。あたしも同じです。あたしの手紙に対して、「これからは期待してる」とか「ドンマイ」とか「この損害の分は、しっかり仕事してもらって、取り戻してもらうからね」とか、何かしらの反応は欲しかった。
こういう事を書くと、中途半端に「自己肯定感」を勉強してる人から、「あなたの感情は統括に支配されてるのですか?」等という揚げ足取りも出てきそう。改めて、「自己肯定感」と「自分勝手」は違う。「個性」と「ワガママ」は違う。
統括と話し合って、今後もプロジェクトを継続していただける事にはなりました。それは本当に、先方のご配慮に感謝です。ただそれはあくまでも会社組織の代表としてのもの。個人として、一人間として、とは別。「わかった」の一言でも、どれほど違うものか?「報われた」という思いを持てずに、オフィスに戻り事務的な結果を上司に伝えた後、お手洗いに直行。腕を噛んでも止まない嗚咽。
以前、全く逆の出来事もありました。あるプロジェクトに中途で入ったあたしは、午前中からミスの連続。そのせいで、あたしの上司(でも年下)が現場側の人間から叱責されました。あたし申し訳なくて、昼休みに半べそかいてて、そこにたまたま上司が。「あたしのせいですみません」と頭を下げると、たった一言「頑張るしか無いよ」って。あたしは条件反射的に「取り返します」って口から出てた。
その後はとにかく頑張って、何度も現場にも足を運んで、オフィス側と現場側の意見を調整して…。
不思議だけど、楽しかった。おそらくこれを「充実」って呼ぶんだと、初めてわかった。
その上司(今も上司。前述の「泥をかぶる」と言ってくれた人)には、どこまでやれば取り返せるかわかんないけど、あの恩を忘れない事は約束できます。
以前書いた「不器用なあたし」にも繋がるけど、あたしはあたしなりに苦労して努力して失敗して成長して、を繰り返してます。「不器用」って言われ続けて、「不器用」の錆がこびりついて離れないけど、不器用だから「一生懸命」はできなくて「一所懸命」取り組んで、やっと今、「楽しい」を知りました。
誰だって、褒めてもらいたいよ。白鳥は人から見える水面では優雅に見えるけど、見えない水中で必死に足掻いているんだよ。「当たり前」じゃなくて、「当たり前」に見える事、見せる事はすごいんだよ。
せめてあたしは逆の立場で、「足掻いた」人には「ちゃんとわかってるから」って伝えたい。気付けているかな、あなたの頑張りに?
あたしは、あなたがあなたでいる事を、「当たり前」だなんて言わないね。頑張りを見せない頑張りにも、気付いてあげたいよ。
あたしを知ってる人達へ。あたしには「得意な事」なんて、何もありません。得意に見えてるのなら、それはそれで良いことかも知れないけど、本当のあたしは白鳥じゃなくて、犬かきです。時には気付いて欲しいし、気付いたら言葉にして欲しいです。
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