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「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んで

「音楽とかダンスとか、子どもたちがしたがることができる環境を整えて、思い切りさせる方針に切り替えたら、なぜか学業の成績まで上がってきたんだって」

「先生たちも、カトリック校と違ってフレンドリーで熱意が感じられた」

「何よりも、楽しそうでいい。だから子どもたちも学校の外で悪さをしなくなったんだろうね。学校の中で自分が楽しいと思うことをやれるから」

まず、この部分を読んで、一気に引き込まれた!

日本人の母(イエロー)とアイルランド人の父(ホワイト)の両親をもつ男の子のお話なんだけど、さまざまな差別、学校、音楽・・・などなど、興味深いエピソードのオンパレードだった。これは書き留めておかねば・・・


どっちの中学校にする?!

さて、この「ぼく」は、カトリック系の小学校に通っていたが、中学に進学するにあたり、対照的な2つの中学校の見学会に行くことになる・・・

カトリックの中学校では・・・?
初老の校長先生が、全国一斉学力検査での平均点や有名大学に入った卒業生の数など学校の優秀さを語り、続けて上流階級風の英語を話す生徒会長が学校生活がいかに有意義で素晴らしいかを朗々とスピーチする。

近所の中学校(元底辺中学校)では・・・?
若い校長先生のスピーチは学校説明よりもジョークのオチを言うタイミングに傾注し、本気で笑いを取りに来ている感じ。「もう終わり?」というくらい簡潔。次は生徒会長が・・・?と思いきや・・・

※ ここからです!私がわくわくしたところは!!!

「さて、次は、わが校が誇る音楽部の演奏を聞いてください」
いきなり彼の背後の幕がサーッと上がる。
中から出てきたのは、あらゆる楽器を持ってステージ上に並んでいる夥しい数の制服姿の中学生だった。ギター、ベース、キーボード、ドラムに加え、ブラス隊、パーカッション、ウクレレ、ウッドベース、ピアニカ、なんだかよくわからない民族楽器のようなものを手にして立っている子もいる。

楽器の音も声も動きも多種多様過ぎて、みんなバラバラなのになぜか一丸となっていて、なんでこんなに雑多な演奏なのにサウンドはまとまっているんだろう。と、考えてしまったのだが、わりとすぐにその答えはわかった。みんな楽しそうだからである。全員がエンジョイしているから、その陽気なヴァイブで細かいことはぶち飛び、パワフルな楽しさのうねりが生まれている。

これはまさに、私が学校の音楽教育に抱いてきた違和感や、私の大好きな坂爪圭吾さんの音楽や、まえだゆりなさんの音楽や、映画「天使にラブソングを・・・」を観て以来ハマった、ゴスペルに通じるものを痛感してしまった。

そして、その後校舎内をまわり、音楽室に案内される場面では・・・

ザ・シャドウズ、ジ・アニマルズ。ザ・フー。名だたるブリティッシュ・ロックの名盤アルバムのジャケットが両側の壁にずらりと貼られていたのだ。何よりこの並べ方に信頼がおけるのはロニー・ドネガンから始まっている点だ。ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、ピンク・フロイド、デヴィッド・ボウイ、レッド・ツェッペリン。T・レックス・・・なぜこんなものたちが学校の廊下に。~中略~ザ・スミス、ザ・ストーン・ローゼス、オアシス、ファットボーイ・スリムとだんだん現代に近づく並びを眺めているうちに音楽室兼音楽部室の入り口に到着した。
「ここは、学校中で私が一番好きな部屋です」

洋楽詳しくないので、そんなにわからないけど、なんかこの感じわくわくする。「音楽室が学校中で一番好きな部屋」って素敵すぎる!子どもたちに言わせてみたい!しかも、音楽室の奥にはガラス張りのレコーディング・スタジオまであったのだ。こんな夢のようなことが現実だなんて?!しかも公立の中学校で・・・

そして、すったもんだの末、結局息子は、近所の中学校を選ぶことになる。

・・・で、新入生は団結力と協調力を高めるために、なんとミュージカル(アラジン)に取り組むのだ!素晴らしい!素晴らしすぎる!!

そして、そこでも面白すぎる事件があれこれ起こる(≧◇≦)(省くけど)


これまた衝撃的なクリスマスコンサート

それまでクリスマスというと、カトリック系の小学校では、教会で聖歌隊の歌を聴き、厳かに過ごしてきたのだが・・・

この中学校では、子どもたちが作詞作曲したオリジナルソングを披露するコンサートが行われた。中でも衝撃だったのが・・・

楽器も持ってないし、ひとりでいったい何をやるんだろう、と思っていると、不愛想にジェイソンは言った。
「俺は坂の上の公営団地に住むラッパーです。今日は俺が書いたクリスマス・ソングをやります」
そう言って音響担当のほうを見て頷くと、講堂にトラックが響き始め、畳みかけるようにジェイソンがラップを始めた。

「父ちゃん、団地の前で倒れてる
 母ちゃん、泥酔でがなってる
 姉ちゃん、インスタにアクセスできずに暴れてる
 婆ちゃん、流しに差し歯落として棒立ち
 
 七面鳥がオーブンの中で焦げてる
 俺は野菜を刻み続ける ~」

ゲラゲラ笑って受けている保護者と、「中学生に何を歌わせているんだ?!」という嫌悪感を示す保護者・・・そんな中、先生たちはというと・・・?

校長も、副校長も、生徒指導担当も、数学の教員も、体育の教員も、全員が「うちの生徒、やるでしょ」と言いたげな誇らしい顔をしてジェイソンに拍手を贈っていたのである。
いまでもいろいろ問題はあるにせよ、元底辺中学校に「元」をつけたのは、きっとこの教員たちの迷いのない拍手なのだ。

こんな風なのだ。


対照的な授業風景

前後格差・・・カトリック校(学校あるある)

授業の見学が許されている教室はあらかじめ指定されていたので、他の教室は見てはいけないと思いながらも、ちらっと覗き込みたくなるのが人情である。ふと教室後部のドアに埋め込まれたガラス部分から中を覗くと、最後部に座っている生徒たちが机の上で堂々と雑誌を読んだり、携帯をいじったりしているのが見えた。「自習中かな?」と思って、前方の扉のガラスからも覗いて見ると、ちゃんと教師はいた。いるどころか、ホワイトボードに長い数式を書き込んで熱心に説明中で、前方の生徒たちは、最後部の生徒たちとは正反対の真剣さで、先生の話に聞き入り、ノートを取っている。

雑誌や携帯はないにしても、授業に興味がわかなかったり、ついていけなかったりする子たちが、取り残されていくのは、珍しくない光景。多種多様な子どもたちを相手に、ひとりの先生が一斉に限られた時間で決められたことを指導していくというシステムでは、よっぽどの工夫がない限り、たとえどんなベテランの先生の授業でも、こうなるのは当然すぎる。


廊下で勉強・・・元底辺中学校

各教室の外にテーブルと椅子が置かれていて、教員と生徒2、3人が座って勉強しているのを見た。
「なんで廊下で勉強しているんですか?」と聞いたら、授業に集中していない生徒には廊下に出てもらって別の教員と一緒に少人数で勉強してもらうシステムになっていると言っていた。「取り残されている子たちを作らないことが、目下、我が校の最大のテーマなんです」と。

日本でもこれに似た実践をしている中学をテレビで見たことがある。この方法には、いろいろ配慮が必要かと思うし課題もあると思う。でも、少なくとも、自分のペースで学習できる環境が与えられているだけで、同じ学習内容でも、子どもたちの取り組みは全然違ってくるだろうことは、子どもの身になってみればよくわかる。


タンタンタンゴはパパふたり

これは絵本のタイトルなのだけど、「はらぺこあおむし」や「かいじゅうたちのいるところ」と同様、どこの園にも必ずある名作で、英国の保育業界では「バイブル」と言っていい。と書かれている。著者の住むブライトンは、LGBTの人々が多く住んでいる地域で、著者が昔勤めていた保育園にも、同性の両親をもつ子どもたちが何人もいたとのこと。子どもたちはこの絵本が大好きで、何回でも「もう一回読んで!」と言ってくるそうだ。そんな中でのエピソードに、私はまたしてもビックリした!!

「タンゴもジェームズと同じでパパが2人だから、いいなあ。うちもパパが2人のほうがよかった」
その子にわたしは聞いてみる。
「なんでパパ2人のほうがいいの?」
「だって3人でサッカーできるもん」
すると隣から別の子が言う。
「えーっ、ママが2人のほうがいいよ」
「なんで?」
「ママのほうがサッカーうまいもん」
「僕んちはママだけ。でも時々ママのボーイフレンドが来る」
「うちはパパひとりとママが2人。一緒に住んでいるママと週末に会うママ」
「うちのパパはいつもはパパなんだけど、仕事に行くときは着替えてママになる」
いろんな家庭のいろんな子どもたちがいた。同性愛者の両親を持つ子ども、週日は義理の母と暮らし、週末になったら実母の家に泊まりに行く子。女装のパブシンガーの父親を持つ子ども。彼らは自分の家族が他の子の家族と違うことをまったく気にしていなかった。それぞれ違って当たり前で、それを悪いとも良いとも、考えてみたことがないからだ。


エンパシーとは他人の靴を履いてみること

子どもの権利等について学ぶ、シティズンシップ教育の試験で、「エンパシーとは何か」という問いに、息子は「自分で誰かの靴を履いてみること」と書いた・・・というエピソードが出てくる。
そして、彼はこの学習がすごく面白くて好きだと言っている。
ここでも私は「う~~~ん、素晴らしい!」とうなってしまった。
それについて語る息子の言葉はこちら!

EU離脱や、テロリズムの問題や、世界中で起きているいろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみることが大事なんだって。つまり、他人の靴を履いてみること。これからは『エンパシーの時代』って先生がホワイトボードにでっかく書いたから、これは試験に出るなってピンと来た」

そして、著者の言葉でシンパシーとエンパシーの違いについてこんなことも書かれていた。

シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出てくる。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。


貧困家庭の子の万引きを咎めるうちにいじめに発展していく場面で、こんなセリフが出てくる。

「自分たちが正しいと集団で思い込むと、人間はクレイジーになるからね」

「『あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけが、この女に石を投げなさい』と新約聖書のヨハネ福音書でイエスも言っているしね」

おお~これは、圭吾さんもよく引用される聖書の言葉!

本当に、他人を咎める資格のある人なんていないのでは・・・?

自分が正しいと思い込んでいる人が一番やっかいだ!と思うそばから、「おまえのことだぞ!」っと耳元でささやかれている気がする。
自分を含めてみんなそうなのだ。自分は正しくて、自分の考えと違うものや、知らないものは受け入れ難い。


「ブルー」はいつの間にか「グリーン」に・・・

結局「ぼく」は、いろんな理不尽な思いもするのだけど、最後はバンドを組んで、みんな歌にしてしまうというところがまたいい!楽しい!面白い!ちょっと引用すると・・・

ティムが「マージナライズド」という言葉を繰り返すところで、息子とベース担当の子が「ウウウー」とコーラスを入れるのだが、それが全然ハーモニーを成してないというか、あまりに音程が外れているのでホラー映画のサントラみたいに不協和音を醸していて、思わずぷっと噴いた。ちょっと失礼かなと思ったが息子も笑い出したので心おきなくわたしも爆笑する。
「ははははは。めちゃくちゃな曲だけど、いいじゃん。~」

そして、最後に「ぼく」は、「お母さんは僕の言葉『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』っていうのを使って、何か書いてるようだけど、もうブルーじゃなくて「グリーン」(未熟・経験が足りないのような意味)だから。みたいなことを言う。いろいろあるけど、もうブルーな気持ちはふっとんで「まだまだおれたちこれからだよ~!」みたいに前を向き始めた感じかな?

それならわたしもグリーンだな。まだまだ知らないことばかり。まだまだこれから。まだまだ変わり続ける・・・



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