僕が写真を撮り続ける理由
僕は、カメラを手にするまで写真を撮らない人間でした。スマホで写真を撮ることが苦手。写真に写ることも苦手。何かあるとすぐに、スマホを対象物に向けて、シャッターボタンを押す光景を目の当たりにすると、すごく気持ち悪くなります。カメラで写真を撮るようになってからも、自分の存在をどこまで消せるかを考えてしまいます。
僕は、集団行動が苦手です。集団でいると、自分の存在意義を感じることができないからです。僕は、これまで属した集団で長続きしたのが、一人ひとりが、独立した個人がお互いを支え合う集団であること。個人の意思を否定せず、尊重して自由に挑戦できること。いつも一緒に行動するよりも、月に一回か半年に一回くらい顔を合わせるぐらいの関係性が僕には心地が良いです。僕は、元々普通の人が興味を持つようなことに、全然興味が無いんです。自分と似たような考えを持っている人と出会ったことが無く、価値観が合うことも無いので、人とはいつも一定の距離を保つのが、自分のスタイルです。プライベートは超インドア派です。
そんな僕が、写真を撮るようになったのもかなり偶然の要素が大きいです。写真を始めた頃は、写真を撮りたいと思っていなかったということです。
今から、1年以上前、2020年3月のことです。僕は留学の準備を半年かけて進めてきました。しかし、コロナ禍の影響により、留学を断念せざるを得ませんでした。その時に、留学の記録用にカメラを買っていました。しかし、留学できなくなり、カメラを使うタイミングを失いました。日本国内でも、緊急事態宣言が発令して、カメラを持ち出す機会すら奪われました。そのまま家の棚で埃を被って、8月まで眠ることになりました。その当時、僕はとあるフットサル場でアルバイトをしていました。そのフットサル場もコロナ禍の影響を受けて、2ヶ月間休業していました。8月から営業再開になり、一人でも多くのお客さんがフットサル場に戻ってきて欲しいという思いで、写真を撮り始めました。加えて、そのフットサル場は2021年8月に閉店することが決まっており、写真で記録していくことで、ここにフットサル場が存在したことを残したいと思ったからです。
もちろん、カメラの技術なんて一切ないど素人がいきなり動きの激しいフットサルを撮ることは無謀に近かったです。最初は、そのままの設定で撮影してみました。雑誌で見るような写真とは違って、ブレている写真が撮れませんでした。それが悔しくて、絶対良い写真を撮れるまでは辞めないという決心をして、独学で写真を学び始めました。
今の時代、ネットで検索すれば情報は山のようにあります。YouTubeで、実際の使い方を学び、それを試して、失敗して、試して、失敗して...。その繰り返しの中で、半年くらいでようやく人に見せられる写真が撮れるようになりました。そこからは、ただ撮ることなら誰にでもできることだと感じるようになりました。それと同時に、僕にしか撮れない写真があるという確信もありました。
僕は、映画を映画館で年間100本くらい観て、サブスクを合わせたら年間500本くらい観る変人です。そこで「見る」という視点を鍛えることができたと思っています。映画は何百時間という撮影データを決められた時間の枠組みで編集をします。僕たちが観ることができるのは、その編集された映像です。スポーツ写真もそれと同じような感じです。一回の撮影で何百枚という写真の中から最適なシーンを切り取ります。加えて、サッカー歴15年の経験値もあり、選手目線の写真を撮れることが大きな武器となりました。僕は、サッカーの戦術を考えるのが好きで、自分がプレーしていた時も選手の特徴を分析して、相手チームをどう崩すかという事ばかり考えていました。僕の撮る写真は、常にボールを持った選手が中心にあります。その選手の身体性を表現すること、写真でその試合の魅力を表現すること。最終的に、閉店までの一年間で約4000枚の写真を記録として残すことができました。
これが僕にとっての写真の始まりの物語であり、今の僕にとって大きな財産になっています。写真が好きで撮るようになったというよりも、写真を通して記録することの面白さを知りました。
フットサル場が閉店してから、作品撮りに挑戦しています。今に至るまでは生みの苦しみを味わい続けています。それは、僕には撮りたいと思えることが全然見つけることができていなかったからです。それが、仕事にも悪影響を及ぼしていたのだと思います。僕自身が、純粋に撮りたいと思えることを探すことから逃げていました。ここでようやく、前回のnoteに繋がっていくわけです。
ようやく、自分の心の安息地がわかってきました。それは、日常を旅することができること、暮らしに寄り添った写真を撮れること。僕は、カメラをやっているのにも関わらず、何でも写真に残すようなことはしません。スマホで写真を撮ることもほとんどしません。撮ること以上に撮らないことを常日頃考え続けています。自分という存在をどこまで消して、ありのままの世界を記録できるのだろうか。そうやって、悩みながら進み続けることで10年後である2030年を笑って迎えたいと思っています。
今の僕が言葉にできる範囲で、もう少し解像度を上げてみます。言葉にすることは難しいけれど、言葉を発することができるのに言葉にしようとしなかったら、何も伝わらないということをこの半年で実感したからです。
僕が写真を撮り続ける理由は、記録し続けたものがどう昇華していくのか気になるからです。そして、そこに至るまでに実験を繰り返す過程にある発見が面白いと感じているからです。僕は、他の人とは見ている世界が違います。普段なら写真で撮らないようなことに対して、僕は興味を持つことが多いです。それが、良い写真であるとか、SNSでいいねがもらえる写真であることは関係ないです。実際に、撮影したほとんどの写真は失敗だと感じることが多いです。それでも、僕はこの壮大な「実験」を楽しんでいます。僕の写真が評価されるのは、もっと先でいいんじゃないかなと思えるようになって、ようやく自分の心の安息地を見つけることができました。何者でもないくらいがちょうど良いのかもしれません。
僕が尊敬している写真家は、ヴィヴィアン・マイヤーです。映画になっているので、僕が説明するよりも観て、感じた方が良いです。誰かが説明したことだけで理解したつもりになるのは危険ですし、検索すれば解説なんていくらでも出てくるからです。僕が大切にしているのは、自分の目で見たものをどう解釈したのか、ということです。あなたには、あなたにしか描けない物語があるはずです。僕は、それを映画から学び、これからも映画を通して学び続けていきます。僕の映画論は、後日noteでまとめます。
写真集はこちらです。
ゆくゆくは、モノクロで表現したいという気持ちはあります。しかし、モノクロで撮れば、全部良い写真に見えてしまいます。それは、モノクロで見るという体験が現代社会で失われつつあるからです。今の時代から考えると、カラーでもモノクロでも写真としての表現力が必要不可欠です。モノクロで表現するからには、何故モノクロにしなければいけなかったのかを、僕は言葉にしたいです。
ここに書いてあることは、今の自分が考えていることの一部にしか過ぎません。これから、毎月1回自分の撮影した写真を定点観測していきます。僕はまだまだ写真を撮るということを習慣の中に組み込むことができていないからです。毎日撮ることを当たり前にしたいです。今の僕は、気分で写真を撮る撮らないを決めています。日々の微妙な変化を写真で表現するには、自分の無意識下で写真に残せるようになることが必要だと思っています。もっと察知する力を身に付けなければ、僕の写真は深化していきません。それは、写真に向き合う=自分自身と向き合うという時間を増やすことが目的です。不要なノイズを削ぎ落とし、できる限り自然な流れで写真に記録として残すこと。そこで感じ取ったものを、自分の言葉で記録として残すこと。何よりも大切なことは、記録し続けることです。
記録を続けることで、自分の血肉になっていきます。どんな形であれ、続けることこそが、困難な壁にぶつかった時に道しるべになります。
これからもフットボールの写真は撮り続けます。僕にとってフットボールは人生そのものです。ただ、フットボールの写真はカメラマンとしての仕事としてのイメージが強いです。フットボールの写真は選手やチーム・リーグが主体であり、僕はそれに最適な写真を提供していきます。
僕の考える写真を撮り続けるというのは、写真作家を志すということです。写真を創作活動のための表現手段として主体的に用い、一貫したテーマ性を持った作品の発表を継続して行うことで一定の社会的評価を得ていることです。
自分のスタイルに合わせて、これからも写真を撮り続けていきます。
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