見出し画像

イノベーション不足が叫ばれる今だからこそ見直したい吉田松陰の偉大さ

現代と幕末

日本のイノベーション不足が叫ばれていますが、イノベーションを起こせる人材がそもそも希有であることが大きな要因となっています。それでは、イノベーション人材とはどのように生み出されるのでしょうか。

こんなときは歴史に学べと言われますね。
正解のないこの混沌とした現代ですが、今と似たような状況とよく例に出される幕末を振り返ってみましょう。

ペリーの来航に始まり、欧米によるプレッシャーに襲われる日本において、今後の日本の形をどうしていくのかは、まさしく国を挙げての課題でした。そこには、新たなブレイクスルーやスキームの構築が必要とされていました。そんな中、欧米から学び、国力を高め、彼らと対等に渡り歩いていこうという思想を持つ者が現れました。それが、吉田松陰です。

他藩の実力者とのディスカッションにより芽生えた危機感

彼は、兵学者の家系に生まれ、幼い頃から徹底的なスパルタ教育を受けて育ちました。幼くして藩主に認められた松陰は、見聞を広めるための旅に出ます。旅の道中、他藩の実力者に会い、情報招集・ディスカッションをする中で、このままでは日本は外国の力に屈してしまうのではないか、という強烈な危機感を覚えます。その代表例が、当時イギリスとのアヘン戦争に敗れた中国です。

ここから言えるのは、長州藩に閉じることなく他藩に知見を求めた彼の優れた行動力です。他者との交流により、松陰はあまりにも今の日本と欧米の力に差があることを認識し、彼らに対抗するよりも彼らから学び、彼らの技術や考え方を取り入れ、日本が成長を遂げた上で彼らと渡り合える対等な立場になることを目指すべきであるという結論に達します。

現代に置き換えれば、自分の会社や自身の部署に閉じることなく、他の会社・部署と交流することにより、見聞を広め、自社や自身を客観的に捉え、成長につなげることと言えるのではないでしょうか。

アメリカに学ぼうと越境を実行に移す

ペリーの来航をきっかけに、松陰は下田踏海を企てます。

ペリーが乗った艦隊が下田沖に寄港するという噂を聞いた松陰は、弟子の金子重之輔と共に小舟に乗り、ペリーの船を目指したのです。そこで彼はアメリカに連れて行ってもらう交渉を行うことを企んでいました。当時、外国に渡ろうとすることは禁じられており、松陰がやろうとしたことは死罪をも免れないことでした。

結局、日本との外交交渉に差し障りが生じることを恐れたペリーにより、松陰のアメリカへ渡りたいという申し出は拒否されてしまいます。松陰は罪に問われ、牢獄に入れられてしまうのです。

このエピソードからは、松陰が自身で考えたことをそれだけに留まらせることなく、実行に移してしまう勇気、思い切りが感じ取れます。

誰もが個性を持ち、影響し合える

野山獄という牢屋に入れられてしまった松陰は、それでも心折れることなく、熱心に勉学に励んでいました。当時の牢屋は粗末で、また、一度牢屋に入るといつ出られるかもわからず、そのまま生涯を終える可能性もある中、とりつかれたように本を読み漁る松陰を見て、他の囚人たちは理解に苦しんだと言われています。

そんな中、松陰は囚人を誘って牢屋内で勉強会を開催するようになりました。勉強会と言っても松陰が一方的に教えるのではなく、囚人それぞれの得意な事柄、例えば和歌・俳句・書道などを持ち寄ってそれぞれが講師となり、それぞれが生徒となるという内容でした。

最初は奇人扱いしていた囚人たちも、松陰の熱にほだされ、また、自分でも役に立てるという自信から、その輪は広がっていきました。特徴的なエピソードでいうと、その牢屋の門番までもが勉強会に参加していたと言われています。

この時松陰は、人はそれぞれに才能や価値を持ち、学び合えるということ、そしてその環境が牢屋であっても心を豊かにしていくことができる(獄を福堂にできる)という気づきを得ました。これが後の松下村塾の原点になります。

身分の異なる若者同士が国家を語る

その後、松陰は牢屋から出ることができたのですが、あくまで自宅謹慎という形で、罰は継続しました。彼は、叔父が近所の子供達のために開いた松下村塾を3代目の塾主として受け継ぎ、講義を始めます。

松陰は、身分の分け隔てなく塾生を受け入れ、また、あくまで松陰も同じ学ぶ者として、一人一人が師であり生徒であるという野山獄のスタイルを踏襲しました。これは、まさしく多様性(ダイバーシティ)のある集団が互いを刺激しあい、互いのアイディアを結合させたり昇華させていくオープンイノベーションであると言えます。

松陰が大事にしていたいくつかの考えの中で代表的なものを紹介します。

・知行合一…知っているだけでは意味がなく、それを実行して初めて意味をなす
・学問の在り方…出世のために行うものではなく、時代を知り国のために役立てる力を育てること
・至誠…誠を尽くせばわかってくれない人はいない

以上のような枠にはまらない高い志のもとで、松下村塾の教育はなされ、罪人の行う塾であるにも関わらず噂を聞いた若者が多く集まりました。その中から、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新の礎を築く人物(言わばイノベーション人材)が輩出されたのです。彼の究極の性善説に立った考え方は、一人一人の個性を重んじ、得意を磨かせ、国家に対する貢献心や当事者意識を醸成させるのに寄与したのではないでしょうか。

その後松陰は、再度幕府からの取り調べのために江戸に送られ、安政の大獄により30歳という若さでこの世を去ります(※筆者は実は同い年になっていたことに、これを書きながら気づきました・・・)。彼の死後、松陰の志を引き継がんとする塾生たちにより、日本の明治維新への扉は開かれていきました。

「21回」は国のために無茶ができる

松陰は好んで自身のことを「二十一回猛士」と名乗っていました。ある日、夢の中で神と思しき老人が松陰に示した一枚の紙に「二十一回猛士」とありました。意味を考えた結果、実家の姓である「杉」を分解すると「十・八・三」となり、計「二十一」。また、「吉田」も分解すると「十・一・口・口・十」となり、計「二十一回」です。

ここから、「自身はこれまで脱藩(許可なく藩を離れること)、藩主への意見書の提出、下田踏海と3回の勇猛な行いをした。残り18回は国のために勇猛果敢なことをする責任が自分にはあるのだ」と考えました。とてつもないうぬぼれにも取れる考え方ですが、彼の国に対する当事者意識の強さと実行することへのこだわりが見て取れます。

彼の死後158年が経つ今、改めて彼の生き方や至誠の考え方が我々に光をもたらしてくれるのではないかと信じてやみません。


イノベーション人材を育てる、あるいは自身がイノベーション人材を目指す第一歩として、吉田松陰のような先人に知恵を求めてみるのはいかがでしょうか。

誰もが立ち上がれる

最後に、彼が江戸に送られる直前に野山獄で塾生に送った手紙に書かれていた「草莽崛起」という言葉をご紹介します。

当時松陰は、天皇の許しを得ないで外国と条約を結び、それに異を唱える志士たちを弾圧する「幕府」、日本の現状に対して考えを明確にしない「藩」、何もしない「朝廷や公卿たち」、そして、過激な松陰を避ける「塾生たち」、そのような人々をもはやあてにできないと考え、ある一つの結論に達したのです。

それが、この「草莽崛起」という考え方です。

草莽崛起とは、役人ではなく民間の志ある人(身分に関わりなく草むらのようなところにいる人々)が奮いたち、尊皇攘夷のために立ち上がることを指します。この考えが、松陰の死後、塾生に引き継がれていくのです。

まさに今、草莽の力を最大限に生かし、イノベーションを起こしていくこと(崛起)が必要とされています。

「あなたはあと何回、勇猛な行いを実行しますか?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?